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富士大石寺顕正会「2020(令和2)年・8月度総幹部会」での 浅井昭衛会長の講演を読みました①

1.浅井氏は日蓮歪曲主義者

 富士大石寺顕正会会長の浅井昭衛氏。その人物的本質は「日蓮歪曲主義者」である。歪曲とは「故意にゆがめること、ことさら事実をいつわって伝えること」である。つまり浅井氏は、日蓮大聖人が御書(遺文)に記された文脈を自分勝手に歪曲し、大聖人の意図とは違うものを、さも大聖人の真意であるかのように、世間に言いはやしているのである。

2.8月度総幹部会の講演に見る歪曲

 令和2年9月5日付の顕正新聞2面~4面に、8月度総幹部会における浅井氏の講演が掲載された。この中で浅井氏は種種御振舞御書の一節である

 「此の文の心は、日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬えば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平左衛門既に日本の柱を倒しぬ。只今、世乱れてそれともなくゆめの如くに妄語出来して此の御一門同士討ちして、後には他国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し」(顕正新聞記載のママ)
(日蓮大聖人御書全集で該当する箇所は919㌻)

を引用し

「そしていよいよ広宣流布の暁には、一国の総意により国立戒壇が建立される。その国立戒壇に、日蓮大聖人の御当体たる「本門戒壇の大御本尊」を安置し奉れば、日本は金剛不壊の仏国となる。
されば国立戒壇こそ「日本の柱」であり、その実現こそが、大聖人様の唯一の御遺命なのであります。」

と結論した。

3.混ぜ込まれた2つの歪曲

 さて、端的に言えばここには浅井氏による2点の「歪曲」がある。

【1】
 1点目は、浅井氏は「国立戒壇こそ「日本の柱」」と述べたが、先ほど記載した通り、種種御振舞御書では「日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬えば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平左衛門既に日本の柱を倒しぬ」(顕正新聞記載のママ)とある。
 つまり、浅井氏の手にかかるといつの間にか、「日蓮大聖人ご自身」を意図する「柱」が、「国立戒壇」にすり替えられているのである。種種御振舞御書全体の文脈を歪曲した〝部分的すり替え手法〟。大聖人を自分勝手に利用する悪質なやり口である。
 加えて言うならば、「日蓮大聖人御書全集」もしくは「昭和底本日蓮聖人遺文」に収録されている御書(遺文)の中に、「日本の柱=国立戒壇」や「日蓮=国立戒壇」という趣旨の御指南は存在しない。つまり、大聖人の一生涯を通してみても、そのような御文、そして意図も存在しないのである。よって先の発言は、浅井氏の〝己義〟である。

【2】
 2点目は、浅井氏は「(筆者注:国立戒壇)その実現こそが、大聖人様の唯一の御遺命」と述べたが、日蓮大聖人がそのような御指南をされたことは一度もない。仮に、その主張の根拠は「三大秘法抄」と言うのであるならば、その歪曲の誤りについては当ブログの「三大秘法抄に仰せの『戒壇』に関する一考察」に詳しく指摘してあるので、そちらをじっくりとご参照頂きたい。

4.一つの講演で何度も重ねられる〝歪曲〟

 その上でもう一言加えるならば、浅井氏は「国立戒壇に、日蓮大聖人の御当体たる「本門戒壇の大御本尊」を安置し奉れば、日本は金剛不壊の仏国となる」と述べたが、これは日蓮大聖人の立正安国観とは、まったく違うものである。例えば、如説修行抄では

【御文】
法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり
(御書502㌻)
〔通解〕
「法華経の折伏は、権教の理を打ち破る(法華折伏・破権門理)」の金言であるので、ついに権教を信ずる輩を一人も残さず攻め落として仏の門下とし、国中のすべての人々が、二乗や菩薩などをめざす低い教えを捨てて最高の成仏の教えを信じ、妙法だけが独り盛んになった時、すべての人々が同じく、南無妙法蓮華経と唱えるなら、吹く風は枝を鳴らさず、雨は優しく降って土を砕かず、時代は理想とうたわれた伏羲・神農のような世となって、今世では不幸な災難を払い長寿の方法を得て、人も法も共に不老不死の姿が現実となる時を、皆それぞれ御覧なさい。
 「現世は安穏」という経文に何の疑いもないのである。

と御指南されたように、大聖人が目指されたのは「民衆一人一人が正法を信受・実践することで、自ずと社会にも妙法に則った営みが生まれてゆき、結果として個人の幸福と社会の安穏を実現できる」というものである。
 そしてこのことは、一人一人との対話によって相手の生命を変革し、内発による「発心」をうながす行動であるから、例えば権力などの、自分以外の何者かに強制されて正法を受持することではない。
 よって、所謂「弘安二年十月十二日御図顕の御本尊」を「国立戒壇」に安置するという実体や形式が無くても、民衆一人一人が正法を信受・実践していけば、社会は安穏になっていくのである。

5.「国立戒壇安置が絶対条件」は浅井氏の〝作り話〟

 また、そもそも論になるが、日蓮大聖人が「弘安二年十月十二日御図顕の御本尊を国立戒壇に安置することが社会を安穏にする絶対条件である」と御指南されたことは一度もない。
 つまりこれも、浅井氏による〝すり替え〟であり〝歪曲〟である。また、この際明らかにしておきたいのは、浅井氏の講演の特徴は〝歪曲の漆塗り手法〟にあるという点である。一つの講演の中に〝複数の角度から複数の歪曲を混ぜ込ませ塗り重ねていく〟といやり方である。
 そして、そのような歪曲にまみれた講演を何度も何度も繰り返していくうちに、いつの間にか「大聖人の真意とは全く違う〝浅井氏の己義〟を大聖人の真意であるかのように仕立て上げていく」のである。

6.浅井氏の主張は「似非(えせ)日蓮仏法」

 最後になるが、浅井氏の主張は「似非(えせ)日蓮仏法」である。似非とは、似ているようには見えるが本物とは違ったまやかしのものである。つまり、偽物(にせもの)である。よって、当然であるが、浅井氏の主張を実践しても幸せにはなれない。なぜなら、繰り返しにあるが、「浅井氏の主張は日蓮大聖人の教えではない」からである。浅井氏は、大聖人の教えを勝手に歪曲し利用しているだけである。
 〝偽物〟を〝本物〟と信じて信仰活動をしている顕正会員は気の毒でならない。一刻も早く悪質な歪曲に気付き、顕正会と決別して頂きたいものである。そしてそれこそが、顕正会員一人一人の幸福にとって、最も必要なことである。