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特別養子縁組を利用し母を終えた私のはなし。



この記事を読む方は私のことを全く知らない人も多いかもしれないのでまず自己紹介から。

私は現在22歳。中卒、バツイチ、被虐待児、児童相談所には通告や家庭訪問は何度もありましたが保護経験はなし。

これを前置きとしてこれから
特別養子縁組
という制度のお話です。

特別養子縁組とは

「特別養子縁組」とは、子どもの福祉の増進を図るために、養子となるお子さんの実親(生みの親)との法的な親子関係を解消し、実の子と同じ親子関係を結ぶ制度です。 「特別養子縁組」は、養親になることを望むご夫婦の請求に対し、下記の要件を満たす場合に、家庭裁判所の決定を受けることで成立します。
ー厚生労働省HPより

子を育てられない親が、養育のできる家庭に子を託し自分たちの子として養育して貰う制度、と私は人に説明します。
私はそのようにとらえています。

私は子を産み、その子を新しいお父さんお母さんとなる方に息子を託した側の人間です。


ニュースなどで特集される「特別養子縁組制度」は圧倒的に「子を預かった側」と「育てのお父さんお母さんと暮らす子」の姿が多く特集されます。

故に、この制度を特集などで見てきて知ってる方でも子を預けた側への印象は良くないものであったりまたはイメージできないものではないでしょうか。

まえがき


今回はあくまで私の例として私の話を書きます。
様々な事情で、自分の子供とお別れするお母さんは多いですし元夫という存在がいた私はかなりレアケースかもしれません。
しかしそうじゃないかもしれない…
正直なにが普通なのかは私にもわかりません。
なぜなら「特別養子縁組を選んだ親」のエピソードはネットで探してもどこにも見当たらないからです。

私自身もこのことを公表するのにかなり勇気が必要で何度もこの内容のnoteを書いては消しました。


2021/05/05
報道番組にて「特別養子縁組を選んだ母の想い」という特集が放送されました。

私が出演したわけではないですが私が感じていたこと、私が苦しく思っていたこと、私が息子に感じているほとんどのことが言葉になり、文字になり、電波に乗り皆様の元へ届いていてその特集を組んでくださったテレビ局、スタッフの皆様とインタビューを受けてらっしゃった方たちには感謝しかありません。

なにか私にもできることはないか、と探した末のこちらのnoteになります。
誰かの参考になったらいいな、、と思います。

特別養子縁組を選ぶか悩んでる方
特別養子縁組という制度を知りたい方
特別養子縁組を選んだ方。
誰かに届くといいな。と思います。


できるだけ頑張って文章を書きますがどうしても素人ですので読みにくさや無駄な文があるかもしれませんがご容赦ください。

妊娠と出産

特別養子縁組制度の特集を見るとよく
「相手が誰だかわからない」
「気づいたら妊娠をしていて」
という女性が悩みたどり着いた先という表現を見ます。
そこには必ず「無責任だ」という匿名の批判が伴うので胸が痛くなります。

私の場合は妊娠当時結婚をしていました。
結婚は19歳。相手は10歳上の公務員。
2人が望んで授かった子でした。
しかし私には精神疾患があり当時はマタニティブルーなども重なり私のせいで夫の精神は疲れ

2018年、妊娠24週、堕胎か離婚をしてほしい

と頼まれました。
その頃からまた仲を取り戻した母の助けを借り出産と離婚を決めました。
(母体保護法で堕胎は22週未満という法律があります。その中での堕胎をしてくれ、という話でしたのでそりゃ無理があるよ、という感じでした。)
そして無責任と批判を受けるのは女性だけではなくて男性も受けるべきなはずなのにな。苦しい。


離婚が決まり即別居。
精神科に通院している、という理由で初期から県内の大学病院に診察をしてもらっていました
そこで私の精神面を考慮して助産師さんから乳児院への入所の提案を早い段階でされました。

その話があり県の児童相談所が私を訪ねてきてくださりお腹の子の話や私の話をしていく中で

私の「小学校と中学校のころの児童相談所への通告と自宅訪問をした時の話」「今後の生活」の話をされました。

簡単にまとめると

・被虐待児の母はリスクが高い
・お母さん(私)の精神の状態と産後の体力、そして実家での暮らしと経済基盤が子を育てるには酷すぎる

という内容です。
時代変わったなあ、が第一印象。
私の小学生の頃なんて通告があっても家庭訪問に来て私の母に「娘さんを殴ってますか?」と聞いて「殴ってないです」と答えたらそのまま助けず帰ったのに。いい時代になったなあ、そしていい時代の反面たくさん失われたものがあったんだろうな、と感じました。

とりあえず出産に向けて今はなんとか精神を保ち産後は乳児院へ預けましょう。
で話は落ち着き出産を迎えることになりました。

出産自体はよく巷で聞く「痛くてもう経験したくない」痛みではなくて痛さは全く覚えていなくて
あぁ、陣痛を耐える部屋で流れるオルゴールは嵐のメドレーか〜この曲は花男の曲〜 あ、これはHappiness〜☺️あなんて思いながら陣痛20時間、いきみといきみの間に意識を失ったように眠る、出血多量、スポーンと生まれた先週のエコーで推定2600gと言われた子は3860g の元気な男の子。

記憶が無いのは陣痛が夜始まったのですがその日の朝は6時に起きて朝から夕方までポケモンGOで助産師も呆れる「6キロあるいた」なんてことしてたからかなぁ。
陣痛の話などはおいおいしたいです。
たのしかったので。
20歳、パワーがある…


話は逸れてしまいましたが産後は乳児院へ預けることになり面会などは産後1ヶ月はなし。
その間にも今後の話を児童相談所とすることになりました。


特別養子縁組を決めた経緯

妊娠中も産後も私の中にはひたすら
息子を幸せに出来るのか?
という不安がありました。

幸せとは。

私の思う幸せ
両親がいて
ご飯をなに不自由なく食べられて
帰る家があって
お金の心配をせず学べること。

私の得られなかったこの周りの子達がしている「普通」のことを「普通に」してあげられること、を幸せだと描きました。

となると、私は息子にそれをさせてあげられる自信がほぼ0に近いほどなかった。

高校は出ていません。
学歴もなく結婚中は専業主婦をしていたため手に職もない。
母も1人で生きてく程度の収入しかなく助けにはならない。
元夫へ養育費は「払わない」の一点張り。

そんな中私は是が非でも育てたいという意思が当時はあった。
あの頃の私はきっとお腹の子を支えにして強かったんだろうと思います。
正直、今は、息子を特別養子縁組を利用し新しいご家族に託せてよかったとすごく思います。


妊娠前から見ていたドラマ「コウノドリ」の影響や様々な制度を検索したのもあり特別養子縁組制度は名前はしっかり知っていて制度も理解することが出来ていました。

産後1ヶ月と少しが経ち息子と乳児院にて2週間に1度、1週間に1度、と段階的な面会が始まるのですがその最中はとても幸せですが帰宅すると自分がこの子の母で本当にいいのか、まだ間に合う、という気持ちが勝っていきました。


この子の記憶に私が残らないうちに。


特別養子縁組を使って新しいご家族に息子を育ててほしいです

と児童相談所に連絡をしました。
児童相談所の方とは制度の説明をしてくださりその後数回話し合いをし紙に判子を押したら後戻りができないこと、お母さんはお母さんでなくなること、を説明されました。

しかし産後1ヶ月たたないうちに働きましたが体というのは凄いもので思っている以上に動かない。
働けない。
辞めてしまえば収入は途絶え乳児院の施設利用費すら支払えない。
このままだと何年経っても息子を引き取ることはできない、しかし体も心もかなり追い詰められてる状況、なにより息子が私と同じ生活が苦しい道を歩む可能性を考えると だめだ。としか思えなかった。
私が見つけた息子が私の思う幸せを過ごせる道が
特別養子縁組制度の利用
でした。


同意書に判子を押し、それで手続きは終わります。
そこからは児童相談所が里親さんの選定、里親さんと息子のマッチング、里親さんが乳児院へ通う、という過程を経て里親委託、家庭裁判所の審判を経て特別養子縁組という流れになります。


判子を押したあの日から私はお母さんではなくなった感じでただ「産んだ人」になりました。

周りの反応

通った中学校のある地域では私が子供を捨てたと言われています。
捨てた
と表現されるのは仕方の無いことかもしれませんが悔しくてたまりませんでした。
理由としては妊娠中Instagramにおなかの写真などを載せていたのに産後のらなくなったからのようです。

祖母からは「薄情だ」「産んだ子をよく見ず知らずの相手に渡せるわね」「酷い親だね」と言われました。
祖母に関しては以前「生まれた場所と生きる意味」という記事も書いたのですがそういうことを言う人だとわかってはいましたが、社会の全ての意見がこれか、と思うほど辛辣かつ的確な気もしました。


母と精神科の主治医は理解者でした。
「私はあんたを苦しめたから」
「なんにも助けてやれなかったから」
「ごめんね」
と泣く母。強がって私はなにも言いませんでしたが最後の日
「〇〇ちゃん(息子)かわいかったねえ」
「あんたの赤ちゃんの頃と同じ顔で」
「少しだけばあばにしてくれてありがとう」
と言われ、書いてる今でも思い出すと涙が止まりません。
ごめんね、お母さん。

精神科の主治医からは息子を特別養子縁組に出せたのでもう全て終わった気がすると明るく話してた際に「来週入院しよう」と告げられ翌週入院しました。
その前にも自殺未遂の過剰服薬による薬物中毒の状態で入院はありましたがこの時はきっとまた自殺に走ると思ってもらえていたからのようです。そしてそれは大当たりでした。
来週を迎える前に飛び降りました。
生きてました。低層階からなこともあり傷も少なく。しかし予定より3日早く入院。

ケースワーカーさんが来た時に「なんで死のうと思ったの?」と聞かれそれに対し同席していた主治医は「そんな野暮ったいこと聞くなよ。」と言ってくれました。
そして主治医はよく私に、今でも、
「あの子が生まれてきてよかったと思った日、あなたが産んでよかったと認められる日になる」

「あなたの選択は決して間違っていない、現に息子はきっと幸せにご飯食べてるだろ?そして授かった親御さんは大きな幸せを抱えてるだろ」
と話してくれます。


特別養子縁組が結ばれるまで息子は私の戸籍にいます。
故に職場には息子の存在を伝えなければならない(社会保険に加入の際など)
その時に説明するのが苦しかったです。
そして嘘ばかりを重ねてしまい自分を情けなく思いました。
今の職場には子供を産んだことがあることは話していません。
独身の、フリーター。
ただの一般女性として生きています。


そしてフォロワーが3万人にもなったTikTokでこの特別養子縁組の存在を伝えれたらと思ってたのに結局隠すように「お子さんはどうしたんですか?」の質問からは逃げていた。
批判が怖かった。
批判しかされていないから。
やはり弱い親であることに変わりはないですね。申し訳ありません。



産後すぐ、赤ちゃんを見ると泣いてしまっていました。接客業ができませんでした。
少したち、どうしても接客が得意な私はその類の仕事を選びましたがよちよちと歩く子供を見ると胸が苦しくなる時期がありました。

息子は今2歳を過ぎたあたり。
正直もう2歳の子がどのように成長しどのくらい大きいのかすら想像できないため子供を見ても泣いたりはしなくなりました。
しかし、小さい男の子を見ると「もしかしたらうちの子かも」とよぎることがあります。

ご飯を1人でぼーっと食べてる時美味しいなあと感じながらあの子とこれを食べたかった。とぽっ、と頭に浮かび涙がこぼれるのは今日もありました。

いままでこんな感じの特別養子縁組の話をnoteにしようと書いてきましたがやはり文章はまとまらず涙は止まらず。
こういうところも無責任と批判を受けてしまうかなあと不安がきたり。


出産から2年以上が経ちやっと私の生活は私だけなら何とかなるようになってきました。
しかしそれもフルタイムで休みも少なく働いてるから。
子供がいたらパートタイムで朝から夕方まで、車も購入しないと生活できない地域ですから生活なんてろくにできてなかったでしょう。

やはり選択は間違ってなかった。
パズルを一つ一つはめ込んでいくように自分の選択は間違ってなかったと確信を重ねていく日々です。

養親さんに思うこと。


養親さんのことは私の大切な宝物を救ってくれた人と思っています。
私を助けてくれた、そして息子を助けてくれた神よりも凄い方々だと思っています。

確かに私が育てたかった
けどその選択は理想と夢にしかすぎずベストではないと確信が私に揺るがずあるからこそ、養親さんのお顔もご年齢もなにも知りませんがとても信頼感を勝手に抱き、全てを託している気持ちです。

1度だけ、養親さんが児童相談所を通じて
息子の名前の由来を教えてください
と聞いてくださったことがあり、せっかくなのでお手紙にさせてもらいました。

便箋は8枚になってしまいましたがたくさんの意味を込めたこと、息子のお腹の中での成長過程とエコーアルバム。私が親として過ごした数ヶ月の出来事とその時の写真。
私の持つ息子の全てを児童相談所を通じてお渡ししました。

余談ですが私は生まれてから16歳まで私の顔が映る写真が1枚もありません。
母子手帳も紛失したそうでありません。
生まれきた記録も育った記録も、どこにもありません。

なのでいつかこの生まれた瞬間の写真などが息子の思い出になりますように。
息子の存在を息子自身が感じられますように
そんなことを思いながらお渡ししました。
反応はわかりませんが、どうか負担になってませんように。


おわりに



里親さん(養親さん)たちがどんな方か私はわかりません。
今後も知ることは無いでしょう。
あっせん団体によってはわかるところもあるそうですが私は全く知りません。知れません。
どこの地域の方でおいくつなのか、わかりません。
なのでずっと「新しいご家族」というのは全くイメージが湧きませんでした。


たまたまおすすめで出てきたYouTubeのこの動画を見ました。


もう息子と別れ1年半以上経っていて割り切れてると思っていたのに涙がボロボロ溢れたのを覚えています。

この動画内で話されていることがいままでテレビやYouTubeなどで見てきた「特別養子縁組を結んだ家族」の特集よりリアルで、きっと言葉だからこそとてもまっすぐ伝わるもので
「なんてことをしてくれたの?」
といつか息子に思われるかもしれないという悩みは特別養子縁組を選択肢し受け入れた側も託した側もどちらもがもつ悩みということ、

「お母さんが二人いる、それをなんで悲しいことのように伝えなきゃいけないのかな」
この言葉でかなり気持ちが救われ、そして私自身の考え方も大きく変わったように感じています。

勝手に自分のことを私自身が悪者のように感じていたのもありひたすら罪悪感、申し訳なさばかり身にぶつけて俯いていましたが自分の子を受け入れてくれた養親の方もこんな風に思ってくださってるかもしれないと思うと、涙が止まらなくなります。
もっと自由でもいい。
ならば私も、誰かのためにこの記事を書こう。そう思えました。

そしてこの言葉で救われたように、私も誰かを救えたら。
そんな気持ちでいつもnoteやInstagramを書いたりしています。

「特別養子縁組を選択した母の想い」
という内容の放送を組んでくださったTBSの報道担当の方、番組のスタッフの皆様、本当に本当にありがとうございました。
そしてこれからもこのような報道があればいいなと思います。
いままで見てきたリアル感のある特別養子縁組の特集はとても冷たいものでつらかった。
暖かい特集をありがとうございました。


そしてこの拙い長い文を読んでくださった皆様
この記事を読んでいただきありがとうございました。

追記(2021.06)

本日より裁判所での手続きが始まります。
母を終えた、というタイトルにしましたが戸籍上はまだ関係があります。
しかし息子の保険証は私の名義ではなく児童相談所発行のもの、私は息子の所在地も知ることが出来ないため住民票が移動された息子のなにかの手続きをする、ということは全くできません。
故になにもできません。
裁判所から通知が来て本日同意書の制作などがはじまります。
ここからのスピード感はわかりませんが、私の体験をこのnoteを通してこれから特別養子縁組を選ぶ、産みのお母さんに伝わればいいなと思います。


追記2 2021/06/11

ある方がシェアしてくださったようでとてもたくさんの方に見ていただけて嬉しいです。
嬉しい、というのもやったーView数上がったわ!とかの嬉しさではなくこの制度が認知されることやこれが広まり今悩む方の選択肢になれるかしらという希望になったという点で嬉しいです。ありがとうございます。


昨日の追記の通り裁判所にて特別養子縁組の私が書く最後の同意書を書いてまいりました。

特別養子縁組とは名の通り特別です。
そして個人間ではなく児童相談所かあっせん団体を経ているわけですが私は児童相談所を通しました。

また、生後すぐの制度利用ではなく生後5ヶ月で制度利用です。
なので若干レアケースかとは思います。
しかし手続きは変わりありません。

里親として引き取り、家庭裁判所に特別養子縁組の申立をし、家庭裁判所の調査官の後、裁判長が判断します。

流れはなんとなく「ネットの情報で」私はわかっていましたが児童相談所に聞くと個人情報をたくさん含むためかただ、待っていてください。となり産みの親のサポートは特にありません。
それを考えると産後のサポートがあるあっせん団体もあるようなので私に選択肢が当時もう少しあればそちらを選んでいたのかなと思いました。

調査官さんは私とは1度だけ会います。
私の聴取をし、同意書を書く、昨日の1度のみです。(正直もう少しあると思っていた)

里親さんとはもう少し会うそうです。

なによりも驚いたことがありました。それが
実父にも聴取を取り同意書を取る
ということです。

私の元夫、息子の実父は息子を見たことも抱いたこともありません。
しかし、実父という肩書きが法律上あり相続権もある。故に裁判所に呼び、聴取をとって、同意書を書いてもらう工程は必須なのです。と説明を受けました。

調査官さんより
特別養子縁組とは、産みの親と縁を切り、新たな親と縁を結ぶ、そして、息子の戸籍の【父】【母】から私や元夫の名前が消え、新しいお父さんとお母さんの名前が載る。
特別な、養子縁組です。
だからこそ、丁寧に、私たちは聴取を取ります


私や息子の戸籍を目の前にし丁寧に、説明を受けるととてもとても、現実味を帯びああ、私は本当に母ではなくなるのか。と、


少し予定より時間がかかりました。
私が予想していた季節から2つ程予定より越えたくらいに決まればいいなあという感じのようです。
その理由が「息子の子育てを大事に大事に、まずはそこに重きを置いて申立は少しだけゆっくりにしていたようです」というような説明を受け涙が出ました。
ニュースで見る「特別養子縁組」は預かって、すぐ申立をして、6ヶ月看護をして、審判があって、でしたがそのある意味型にはまった、やり方以外もしていいのか、と。
自由がちゃんとあるんだ、と驚かされました。
そしてたくさんの感謝の気持ちでいっぱいです。

そして「最悪年末」という説明を受けました。
ネックは元夫です。
よくあるパターンで実父が調査に応じない、来ると言っても来ない、はたまたごく稀ですが突然育てると言い出すことがあるそうで、うちの夫は前者にも後者にもつきそうな人だなあと思い不安があります。

個人的にはなるだけ早く、里親さんに本当のお母さんとお父さんになってほしい。と考えています。
血の繋がりはなくとも、息子の苗字が変わり、周りの目を気にすることなく堂々と家族として色んなところに出向いてほしいと思っています。

上にも載せていますが久保田さんのインタビューや取材を見ることで私から見た養親像がかなり変わりました。
ネガティブな背景を背負い特別養子縁組を選ぶ、という印象から子供を笑顔で迎え入れる、幸せな印象に変わりました。
そして調査官さんから伺った新しいお父様お母様の像はそれにぴったりであぁ、早く私の息子のお父さんとお母さんになってほしい。と考えています。

ちなみに、あっせん団体を経由した場合だとニュースで親子が再会するそういうイベントみたいな映像が流れてるのを見たことがあって私もいつか息子が希望したら会えるのかなあと思っていました。
しかし、児童相談所を経由した場合だと私の情報は審判が決まった時の書類に名前と、住所しか載りません。
里親さんの情報もそれと同じくです。
なので例えば里親さんが持ち家にお住いのご家庭だとして引越しがなかったとしても、私は今後引越しや結婚やなにかしらで苗字が変わったりしたらもう居場所はわからない。
今後元のお母さんの居場所を市役所や裁判所では教えることは無い。
故に、再会なんてことはほぼ有り得ない

もういつか息子の会う日のために、なんて言う夢とか希望とかはどこかに置いておいて遠くで新しいお父さんお母さんと元気に過ごしているだろう。という気持ちだけを持つに留めることにしました。


追記の最後にー
お母さんのおもうこどもの幸せはなんですか?と調査官さんより聞かれました。

お父さんとお母さんがいて
ご飯をみんなで囲んで食べて
ほしいおもちゃが欲しいと言えて
行きたい場所に行きたいと言えて
習いたい習い事を学べて、
進みたい進路を選べて、
たくさんの夢を並べて選びとることが出来る環境にいれること。
短く言うと

たくさんの選択肢や可能性が目の前に並んでいること。そしてそれをちゃんと理解できる環境にいられること。

私にはその環境がなかった。
そして私自身が息子にそれを叶えさせてあげられないのは目に見えていた。

だけど新しいお父さんとお母さんの元なら、うまくいくとおもうんです。


きっと幸せになれるよ。
息子をよろしくお願いします。

読んでいただきありがとうございました。




ふええええええええええうれしい!!!!ありがとうございました!