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『ジキル博士とハイド氏』を考察する

 こんばんは。今日もお読みくださり有難うございます。前回は新たな試みとして隠喩を用いて多層的な解釈を惹起できないかと工夫してみました。今回は単純な字義通りの考察として『ジキル博士とハイド氏』とを題材にしていきます。それでは拙文ですが、よろしければご笑覧くださいませ。

スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏』


 稀代の怪作です。人間の二面性にいち早く着目した作品。二重人格というと何か解離性同一性障害のような臨床さが出てきますが、必ずしも病理に還元されるわけではなく、生きていれば多少の多面性は表出してくるのではないかと考察しています。その意味で、この作品が未だに読み継がれているのは、異質なようでいて何処か隣り合わせになっている普遍性から来るものなのではないかと。

 例えば自分の前で物静かな少年が、またある別の人の前では滔々と喋り倒していることは往々にしてあり得るわけです。つまり何を持って「二面性」と呼ぶのか。今作品ではジキルが陽/善でハイドが陰/悪であったけれども、人間って果たしてそうした単純な二元論で割り切れるものなのだろうか、とそうこの作品は読者に突きつけているのですね。

 自分自身においてはジキル的な生き方もハイド的な生き方もできず、良く言えば中道を彷徨っていますが、少し環境や運が違えばどちらもあり得た人生であったと我が事のように感じています。ジキルのハイド的要素を抑えつけられない衝動性、こちらは取りも直さず「自分のもうひとつあり得た片割れ(シャドウ)」であるので、最終的にジキルがもう一人の自分を制御できなくなり倒れたのも、当然と言えば当然の帰結とも取れるような気がするのです。もう一人の自分がもう片方の自分を無視して突き進もうとするほど、肝心なときに片割れが邪魔してくる。これは意外と誰しも経験があることなのではないでしょうか。

 ジキル博士はその真面目な性格や勉強を積み重ねて手に入れた知性で得るものも多かったはずです。ただ同時に何かを犠牲にしていたのも事実であり、そうした一人の人間に介在する「兄弟性」、換言すればカインコンプレックスのようなものが、解離性同一性障害と同じく実は本作の裏テーマなのではないかと思うんですね。人は誰しも自分の醜悪な面は「隠し」たがります。表裏、公私とも捉え直すこともできるわけで、非常に今日的な議題のように感じるのですね。現代の問題はその二つを連続体として受け取られづらいこと、つまり二軸がぱっくりと割れて切断されていないと、受容され難い厄介さがあることです。二者択一として絶えず当事者にも消費者にも迫られ続ける切迫性があるんですね。どちらかを選ばなければならない。

 何も知らない読者=他者からするとそうした二面性は「謎」として映るでしょう。だからこそ推理小説としても読み進めることができるわけです。物語が展開するにつれ、全貌が明らかになっていきますが、詳らかになればなるほどますます訳が分からなくなる。知りたい、正体を突き詰めたいという知的欲求をまさにこの作品は巧みに刺激しているんですね。ラストでは、ハイドに乗っ取られたジキルの遺体が置かれますが、この「解せなさ」が狐につままれたような読者の心に見事に余韻を残していきました。

 また、比喩的に言ってジキルとハイドはどちらが本物/偽物か?という真偽論が普遍的に発生しますが、こちらも水掛け論になるのではと拝察しています。というのも、Aでなければ非Aであるという前提がまずAを否定していることにもなり得て、この場合はどちらも「正解」であるという認識が一番事実に近く穏当だと考えるのです。人間の心に敷衍させると、善が真実であり悪は誤りであるという二元論に拠って立つと、途端に現象が単純化されてしまいます。実際のところ事態はもっと複雑怪奇で、生きていると往々にして天使になったり悪魔になったりしますが、そのどの心境をもが何らかの信念に基づいて地続きを貫いていると考えるのが妥当だからです。それを他者が既存の解釈に則って善か悪かというフレームに組み込んでいく、という構造なのですね。

 この理屈で事象をみつめると、惑わされることが少なくなりました。心象風景と客体化された解釈、その伝播の移ろいを立体的に捉えていくと、何か本質に迫れるような気がするんですね。

 とはいえ、私自身がこのジキルとハイドの絡繰りに翻弄された一人です。恐らく当事者自身も必死の様相で生きていた、というのが本当のところなのかもしれないですね。そのように登場人物に関して想像を膨らませ、思いを馳せることができるのが読書の良いところです。それでは、またお読みいただける日を願って。

 


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