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「ヒトとはなにか?」進化論から考える

【ヒトとはなにか?】

進化論・生物学的な見方をすれば、ヒトという生き物は他の動物と比べて特別な存在ではありません。
音声や言葉を使い分けてコミュニケーションするのは犬猫やイルカでもしていることですし、
役割分担をして社会をつくるのは、アリやハチでもしていることです。
瞬間的な記憶力のテストでは、チンパンジーの方がヒトより良い結果を出すくらいです。

とはいえ、人間が扱える言葉の数は群を抜いていますし、文字を残す動物も他にいません。
アリやハチは国民すべてが女王の子である血縁社会ですが、人間は血がつながっていない相手とも社会を築きます。

どうして人間だけがこれほど強大な国家や技術を持てたのかといえば、
ヒトには高度な学習・習得能力があり、社会の中で知識や技術を発展させながら受け継いでいくことによって、文明を築けたからでしょう。

ここ5000年ほど、ヒトは文明・文化と呼ばれるかたちで様々な知識や技術を集め、取捨選択しながら受け継いできました。
しかしそれ以前の100万年以上のあいだは、ヒトを含むすべての生物は遺伝子を取捨選択することで生き残り、それを受け継いできていました。

他の動物とヒトの社会に大きな違いが産まれた原因は、ここ5000年ほどの「後天的な知識・技術の相続」にあるというのが私の採用している考えです。
つまりせいぜい1万年前くらいまでは、ヒトは他の動物と同様に「先天的な遺伝子の相続」を頼りに群れをつくっていたと。

そこでは学校や義務教育なんてものもなく、受け継がれる知識はせいぜい親兄弟や群れの仲間が経験した「あそこの谷には恐ろしい動物がいるよ」「この実はこうして割れば食べられるよ」なんていう情報くらいだったでしょう。

それ以外の、
「高いところから落ちたら危ない」
「寒いときに冷たい水に入り続けたら危ない」
「鋭いトゲやキバに触ると危ない」
「リンゴなどの果物はおいしい」
「土や木くずなどは食べられない」
といったことは、産まれる前から知っていることです。

もっと正確に言うなら、産まれる前から「恐怖」「痛み」「味覚」といったシステムが出来上がっていて、そこにあらかじめ「命の危険がある行為を怖いと感じる」「怪我をするおそれがあるときに痛みを感じる」「栄養のあるものをおいしく感じる」といった刺激に対する反応のパターンが無数に用意されているわけです。

このパターンを親から子へと伝えるのが遺伝子です。
親が「リンゴをおいしく感じる遺伝子」を持っているなら、その子どもも産まれたときから「リンゴをおいしく感じる」と。

では親が「生のじゃがいもをおいしく感じる遺伝子」を持っていたらどうなったでしょうか。
この場合、おそらく子どもは産まれなかったでしょう。
なぜなら、衛生環境もよくない自然の中で、生のじゃがいもをばくばくと大量に食べていたそのヒトは、毒素によって死んでしまっただろうからです。

こうして「生のじゃがいもをおいしいと感じる遺伝子」が受け継がれずに滅んでしまうようなことを、自然淘汰といいます。
そうした自然淘汰が何百万年もかけて行われた結果、いま生き残っている人々は「生のじゃがいもをあまりおいしく感じない」ように "進化" したということになります。

今回はこの進化論の視座から「ヒトとはなにか?」を書いていこうと思います。

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【進化論とはなにか?】

まず進化論についてよく誤解されているのが、
「生物は、環境に合わせて自分の能力を伸ばしていく」というものです。
この誤解にはポケモンやデジモンの影響があるんじゃないかと個人的には思っているんですが。

なんにせよ生物学でいう "進化" というのは、ポケモンやデジモンのように同じ個体が成長して姿を変えていくことではなく、
親から子、孫、ひ孫、ひひ孫……と続く長大な時間の中で、遺伝子配列の微妙な変化が積み重なっていくことを言います。
そのため一匹の個体の生涯で起こるものは進化とはいいません。

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そして "進化" とは必ずしも強くなることではありません。
身体が大きくなったり牙が大きくなったりすることで、確かに敵に殺されることはなくなるかもしれませんが、その分大きな身体を維持するための大量のエネルギーが必要になってしまいます。

もしもその生き物の暮らしている自然環境が「外敵がいなくて平和だけど、食料が少ない」という環境だったら、
身体が大きな生き物より、少ない食料で生き延びていける省エネの生き物のほうが有利なはずです。
そのためこの場合は「身体が小さくなること」が進化だと呼べます。

もちろん襲ってくる外敵が多い環境なら「身体が大きくなること」が進化になるかもしれませんし、
基準になるのは生き残って子を残せるかどうかであって、それはその者の暮らす自然環境しだいだということです。

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もうひとつ誤解されているのが、
「たくさん走って脚が強くなった親から産まれた子は、脚が強い」というものです。
これは「獲得形質の遺伝」「エピジェネティクス」といったキーワードで議論が続いていますが、
おおまかに言えば、親がなにを食べようが、どんな生活をしようが、子どもに伝わる遺伝子配列は変わりません。

たとえば、私が18歳のときに子どもを産んだとします。
その子どもに受け継がれるのは、私が産まれたときに母と父から受け継いだ遺伝子配列です。
そしてその後、私が肉好きからベジタリアンになり、建築会社のバイトからピアニストに転職し、法律の勉強をして司法試験に受かったとしましょう。
そうして40歳のときに第二子を産んだとして、子どもに伝わるのはやはり私が産まれたときに持っていた同じ遺伝子配列です。
つまり第一子と第二子の遺伝子配列に、大きな違いは生じないということです。

ただこれには議論の余地があります。
遺伝しうるDNAの配列自体は変わらないものの、その周りの化学物質の変化は子どもに遺伝することもわかっています。

しかし今のところ「陸上で頑張ったから、子どもに脚の強さが遺伝する」といった身体的能力の遺伝は確認されていません。
もし陸上選手の子どもの足が速かったとすれば、それは単に「親がもともと強い脚の遺伝子を持っていたから陸上選手になれた、その遺伝子が子どもにも受け継がれた」と考えるのが適切でしょう。

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【遺伝子によって決まるヒトの特徴】

それでは人間は産まれた瞬間に遺伝子ですべてが決まっていて、人生の中でなにをしようと結果が変わらないのか、といえばもちろんそんなことはありません。
いくら遺伝子に恵まれていても、一度も走る練習をしたことがないヒトが陸上競技で優勝できるわけがないですし、
そもそもヒトの社会では身体の強さよりも、産まれた後に学ぶ知識・技術のほうが大事です。
遺伝子的に身体が強かろうが弱かろうが、鉄砲を操れる人間には勝てません。

この遺伝子的な要因と、産まれた後の環境的要因、どちらがどのくらい人間の一生に影響しているのかという研究は、一卵性の双子が別々に育てられたケースの観察などで行われているようです。
たとえば学力の高さは遺伝子と環境のどちらで決まるのか、また犯罪者になるのは遺伝的なものか環境的なものかといったデータもあります。
しかし私が読んだ限りでは研究例も少なく、偏ったものも多いので、また別の機会にじっくり書くことにします。

そこで今回は、はっきりと「産まれたときから決まっている遺伝子的要因」だといえるものについてだけ書いていきます。

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まず遺伝子によって決まることの代表は、毛・肌・目などの色だといえます
花の色、蝶々の模様、猫の毛の色や柄も遺伝子によって決まります。

進化論的にいえば、いま私たちが見ることのできる蝶々の模様は、
「擬態して隠れたりするうえで他の模様よりも有利だったから、現代まで受け継がれて残っている」といえるわけです。
過去には、もっと多様な色とりどりの模様の蝶々がいたかもしれませんが、その中でたまたま周囲の環境に溶け込んだ模様のものが生き残ることによって、それ以外の模様が淘汰されていったのかもしれません。

また遺伝子は、見た目だけではなく行動にも影響を及ぼします。
根本的な話でいえば、私たちが「痛み」を感じたり「甘い / 苦い」の違いがわかったり「暑い / 寒い」と感じたりするのは、遺伝子により決められていることです。

たとえば、腐ったものや汚れた水などを食べたり飲んだりしようとすると、味覚や嗅覚が「マズい」と感じて吐き出したくなりますが、
もしもこうした機能を持たなかったらそのまま飲み込んでしまい、病気になってしまうかもしれません。

それに対して甘いものは、自然界ではなかなか手に入らない貴重な栄養素を含むものだったのだと考えられます。
だから「甘さを感じる」「甘いものを好んで食べようとする」という遺伝子が自然環境で有利なものになり、今に至るまで残っていると考えられます。

更にいえば、遺伝子は性格にも関わってきます。
ドーパミンやセロトニンといったホルモンが分泌されるとき、私たちは興奮・快感により活動的になったり、幸せを感じて落ち着いたりしますが、こうしたホルモンがどれくらい出るのかは遺伝子によって差があります。

セロトニンについては、出やすさを決める遺伝子の配列部分も特定されてきていて、その部分が長い人ほどセロトニンが多く出るため落ち着きがあり、短い人は少なくなるため神経質だという説もあります。

またネズミの実験では、バソプレッシンというホルモンが、一夫多妻のネズミのオスを、一夫一妻に変えてしまったというものがあります。
このネズミはもともとオスが多数のメスと交尾する乱婚型と呼ばれる種でしたが、バソプレッシンを出すような遺伝子操作したオスは、一匹のメスとしか交尾しなくなったといいます。
このバソプレッシンというホルモンはヒトでも分泌されていて、こうした実験から "愛着を形成するホルモン" と呼ぶ人もいます。

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【遺伝子が設計した "学習" という機能】

こうした刺激への反応のパターン集が、遺伝子を通じて生き残った親から子へと伝わっていくことで、我々ヒトやその他の生き物たちは、環境に適応した行動を取るような "進化" を起こしてきました。

そう考えると生物とは、いうなれば「こういう情報が入力されたら、こういう行動を出力する」という機械のようなものです。
ちょっとずつ違う設定をした機械をつくって、大量に自然界にばらまき、よりよく生き残った機械を、どんどん増やしていくようなものです。

しかし植物や単細胞生物の世界ならまだしも、多くの動物は産まれてから死ぬまで設定された行動をひたすらずっと繰り返すような存在ではありません。

そこで鍵になってくるのが "学習" という機能で、これがあるから動物たちはより細かく行動を調整し、ヒトのように知識・技術を伝達することもできるようになったのだと思います。

学習については、
1. ベルの音を聞かせる
2. エサを与える
ということを何度か繰り返すと、ベルの音を聞いただけでよだれが出るようになるという、パブロフの犬実験でよく知られています。

この犬が産まれた時点では「ベルの音が聞こえたらエサにありつける」なんていうパターンは設定されていませんでした。
しかしある状況と、ある報酬が何度も繰り返し与えられることによって、その2つを後天的に結びつけ、パターンとして覚えることができたわけです。

この仕組みは考えてみれば当たり前で、
「この形でこの色の葉っぱの木を揺らせば果物が得られる」
「雨の日にこの水辺のこの場所にいくと魚がいっぱい得られる」
なんていうパターンを、遺伝子にあらかじめ設定しておくのは無理があります。
それに場所や環境が変わればそうしたパターンも通用しなくなってしまうので、結局生き残ることができなくなってしまうでしょう。

だから遺伝子は、
「ある特定の状況で、エサが得られた場合、その状況を繰り返す」
という単純なパターンを "学習機能" として設定することで、
「揺らして果物が得られた木はまた揺らす」といった柔軟な行動を実現し、日々変化する自然環境を生き延びることができたのだろうと、私は想像しています。

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《ヒトの学習》

ヒトの学習というと、教科書をつかった勉強のようなものを想像するかもしれませんが、基本的な仕組みとしては他の動物と同じだと考えられます。

つまり「褒められたり、いい結果に繋がった状況・行動を繰り返す」というのが基本になっていて、
そこに言葉を用いた観念的思考・未来予測などが加わってくるのがヒトの特徴です。

犬が「ベルの音」という音声刺激を手がかりによだれを出すように、
ヒトなら「うめぼし」という文字列を見ただけでもよだれが出てきます。

うめぼしの実物と「うめぼし」という文字列は色からかたちから似ても似つきませんが、ヒトは言葉を訓練することで、その2つを観念的に結びつけることができるわけです。

この観念的思考、西洋風に言えば「Idea_イデア」、茂木健一郎風にいえば「Qualia_クオリア」を扱える脳の仕組みがあることで、他の動物では見られないような文章化された知識の蓄積や、血縁的つながりを超えた宗教・社会の発展が可能になったのだと私は考えています。

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