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誰かの幸せを願うということ

幸せとは何かと考えると、世間的に言えば、好きな事をして、社会的地位を獲得して、好きな人と家庭を持って、大切な家族と共に過ごす、という事かもしれない。世間も結局は個人の集合体である訳だから、程度の差はあれ、以上を不幸せだと感じる方は少ないだろう。しかし、当然のことではあるが、それが難しいのである。拘れば拘るほどに。そして、何かしら概念が確立されてしまえば、当然それ以外、そうじゃない裏側、境界線が、出来上がってしまうのだ。どんなに角のない丸い球体であっても朝と夜とがあって、ましてや僕たちの姿形や心の有様は良くも悪くも、刺々しくて、ばらばらなのだから。

これは私の未熟も多分に影響しているが、幸せと不幸せ、勝利と敗北、という考えは、確実に存在する。そんな事考えたくなくても、誰かがそう思って、その土俵で立ち振る舞っていれば、少なからず、意識してしまう。

そんな不条理を覆す遠吠えであったかのもしれないが「失敗は成功の素」や「正しい努力は報われる」と言った通説があるのは語るまでもない。そしてこの期に及んで私も、そう信じている。今後も変わらないだろう。

ともすれば、勝敗とか、幸不幸には境界線など存在せず、対岸に見えて陸続きであり、延長線の因果なのだ。というか、そうであって欲しい。悦に浸る理由も、歯軋りする理由も、本来どこにもない。

学生時代にハインリッヒの法則を学んだ。

1件の重大事故の背後には、
重大事故に至らなかった29件の軽微な事故が隠れており、さらにその背後には事故寸前だった300件のヒヤリハット(ヒヤリとしたりハッとしたりする危険な状態)が隠れている

論理的にそうであるかは判らないが、直感的にこれは目標達成、つまるところ、幸せの獲得にも言える事ではないだろうかと思っている。重大な問題の回避には、些細な問題の回避が重要である。構造を真似ると、大きな幸せの獲得には、些細な幸せの達成があり、失敗を成功の素と捉えるのであれば、その背後には計り知れない失敗がある。失敗を美談とは思わないから、一口に言ってしまえば、数えきれない「悲しみ」がある。

幸せより悲しみの数の方が圧倒的に多いのであれば、そして、とある幸せが境界線に基づいて出来上がってしまっていたら、自身の幸せの誇示は想像しえない数の悲しみの助長となるかもしれない。そんなことを時々考える。そうはなりたくない。

我々は刺々しくてばらばらだから、そして境界線なんて作りたくないから、世間体を取っ払ってもう少し抽象的に考てみる。

つまるところ「どう生きたいか」の達成が、幸せなんだと思う。

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自分より誰かの事が大切になる時が度々ある。一方通行であったとしても、できる形でその人を幸せにしたいと、懸命に動く時が。そして大抵それはその人の裏側を垣間見たときに、一種の同情をもって現れてくる気がする。一方通行である時点で、求めていない同情が原動力なのであれば、そんな感情は却って迷惑なのかもしれないが、そんな事は1000も承知なのだ。心から笑顔になって欲しい、ただそれだけなのだ。

それは自身どうこうの話でも、報酬云々の話でもなく、純度100%の善意に基づいているのであれば、そして本当に相手が幸せになるのであれば、とても素晴らしいことだと思う。もっと言えば「そうやって生きていきたい」と願うのは不自然でも何でもない。

そんな風にあれこれ考えていると、世間的な幸せと、個人的な生き方とが、段々と離れて行ってしまうような感覚にもなる。判っているつもりでも、未熟だったりしょうがなかったりで、寒い夜が、暖かい毛布を欲する夜が、度々訪れる。

つまり、生き方を肯定しても幸せを感じ得ない事、または幸せを感じる時に生き方を諦めた心地になる事が、自分には茶飯事なのだ。未熟さだろうか、幸せの定義づけに矛盾があるのだろうか。

けれど、投げ打ってでも誰かの幸せを願った事が、いつか自身の幸せになる瞬間を、私はどうしても諦めたくないのである。