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内向に関する一試論

 私は自分のことを内向的な人間だと自覚している。「内向」を広辞苑で引くと、「心の働きが自分の内部にばかり向かうこと」とあるのが看取できる。対義語は「外向」だ。私が自分のことを内向的な人間だと考える理由は種々あるけれど、noteで文章を書くことに関連したことでいえば、自分を世界の側に引きつけたようなテーマを扱うのではなく、世界を自分の側に引きつけたようなテーマを扱うことが少なくないことが挙げられるだろう。

 「外向」も「内向」もそれ自体では中立的である。すなわち、どちらが優れているということではない。問題は、自分がどちらの傾向があるのかを理解することで、理解するためには世界や他者となるたけ多く触れることが求められるだろう。インターネットで検索をかけると、それぞれの傾向が説明されている記事もみられるだろうが、言葉だけで決めつけてしまうのは早合点だと思う。いろんな刺激に身を置いてみて、社会や状況といったレンズを抜きにしてなるたけ素直に自分がどう反応するかを見極めること。これが肝要であるように思う。

 もちろん、100%外向的な人間も、100%内向的な人間も存在しない。100%女性的な女性も、100%男性的な男性もいないのとあるいは同様に。白か黒で考えることには常に視野狭窄になってしまう危険が孕んでいる。それでもあえて一般的な内向的な人間の特徴をいえば、それは比較的弱い刺激を好むことが挙げられる。あるいは、強い刺激を苦手とするともいえる。強いか弱いかという基準も具体的な個人のレベルでみれば感度の差があるので一概にはいえないが、たとえば読書や映画鑑賞は弱い刺激に属すると考えられている。反対に、強い刺激の例としては、パーティなどの社交の場に参加することや大勢の人がいる街や駅に出向くことが挙げられる。

 留意しなければならないのは、「内気」と「内向」は似て非なる言葉であるということだ。「内気」を広辞苑でみると、「引っこみがちな気質。思ったことを人前で言ったりすることのできない性格」とある。「内気」というのは態度の話であることが広辞苑の定義からは看取できる。他方、「内向」は心の動きの話である。内向的な人間だからといって、内気なわけではない。ディベートに強い人間でも内向的な人はいる。

 内向的な人間の中には繊細な人も少なくないように思う。それは、先述べたように、刺激に対する感度が外向的な人に比べて高い傾向にあるからだ。私は自分が外向的な人間ではないから知らないことを知ったようにいうのは差し控えたいが、便宜的にここでは内向的な人間の方が刺激に対する感度が高いとしておく。繊細というのは、同じ刺激に対する感度が通常人に比べて高いことを指して使われる言葉である側面が大きいだろう。通常人ならば無視ないし気にしないでいられる刺激をいちいち気になってしまうのは大変なことだ。私もたぶん人が気にならないことを気にしてしまう性質だから。でもそれは見方を変えれば、人が気にならない、気にしないところまでみることができるということだ。

 私のnoteの記事がだいたい私という一人の具体的な個人の思ったことや感じたこと、あるいは問いを一歩目に書かれているのは、私が内向的な人間であるということに負うところが大きいと思っている。心の働きが自分の内側に向かうというのはそういうことで、だから私は文学を好むのだともう。だって文学の価値は、個人の価値観やライフスタイルに依拠しているだろうから。あと、たぶん、内向的な人間は自己完結的でもあると思う。他者との交流は刺激が強いから、関わるとしても少人数でというのが私の場合はほとんどだ。これは、内向的な人間は自分自身と対話できる能力を体得する傾向があることにもよると思う。

 そういうわけで、これからもきわめて個人的な、世界の問題とは全く関係しないような記事を書いていくことになると思います。


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