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書くことについて

 書くことは、解放であり、自由でもあり、また快楽でもある。あるいは、書くように私を駆動するなにかがあり、書かざるを得ない側面もある。

 それがエクリチュールであれ、パロールであれ、私たちは日々言葉に接している。その関わり方は時代の移り変わりによって変化しているかもしれないけれど、その本質は変わらない。

 言葉は、文章は、主体から発され、また話され、書かれることで、私とは別のなにかになる。言葉は、私ではないのだ。その感覚が心地よい。私にはそのような言葉の「他者性」が好ましく映る。たとえば、好意を抱いている他者に想いを伝えようとしている場面を想定する。何時間も、何日も、私はどのように想いを伝えるか、どんな言葉だったら私の伝えたいことが伝わるだろうか、あるいはどんなシチュエーションだったら私の真摯度が伝わるだろうか、思案するだろう。けれど、それを直接伝えたり、手紙に書いたり、あるいは今日ではSNSで伝えてみたりしたら、言葉は私から離れ、どこかよそよそしく感じられることだろう。それには、私が伝えたいメッセージを受け取る他者に依存するという側面もあるだろうし、どうしたところで言葉は私ではないという言葉の「他者性」に直面するからかもしれない。

 私はいままで、私の伝えたいことをうまく伝えられた記憶がない。どんなに誠実な言葉でも私から離れてしまえば嘘に聞こえるし、それは他者の反応をみればわかることもある。そのたびに「私はなんて無力なんだろう」と思う。こんなにも言葉を愛しているのに、言葉の方は気まぐれで私からするりと逃げてしまうのだ。

 でも、たとえ不誠実にしか言葉を扱えなくても、私の伝えたいことが他者に正しく受け取られなかったとしても、私はそれだけで言葉に対する信頼を手放すことはないだろう。だって、私にとって言葉は、奇跡の象徴だから。私は言葉に救われたから。そんなに簡単に言葉への信頼を手放すことはできない。

 だから私は今日も言葉と向き合うし、拙い操作かもしれないけれど、こうして文章を綴る。いつか、私を救った物語のように、ではなくとも、目の前にいる大切な他者に伝えたいことが一度でもいいから伝えられる日を信じて──。


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