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言葉の余白

 自分自身ないし世界とうまく距離を取ることができる人ならば、たいていの問題はささやかに映るだろう。これは正確な表現ではない。自分という具体的なひとりの個人に焦点を当てるのではなく、もっと総体的な、たとえば政治の問題を考えるとそうはいえない。だから、一人ひとりの具体的な個人に限っていえば、という留保はつくけれど、個人が抱える問題というのはたいていささやかなものだと思っている。もしそうでないのだとしたら、いたずらに問題を拡大して捉えてしまっているのだろう。もっとも、政治的な問題といった総体的な問題と個人の問題を分けて考えるのはきわめて難しいことだし、不適当かもしれない。それでも私としては、個人の抱える問題というのはたいていささやかな問題だという前提に立って話を進めようと思う。それが便宜に適うというのは確かにそうする理由の一つではあるけれども、私個人の経験としてもあながち間違っていないようにみえるからだ。

 目下私が抱える、あるいはささやかな問題というのは、大学院に合格できるのか、合格できたとして現実的に進学できるのかということだ。ただ合格するだけならば昨年の時点で達成している。だからこの点に関しては無視できない部分はあるけれど、比較的ささやかな問題だと思っている。問題は、大学院に合格できたとして、現実的に進学できるかということだ。けれども、この点に関しても論理的には大学院の合格が先行することになるから、今の時点で言えることはほとんどないように思う。そのように考えると、この問題は、問題設定自体、すなわち前提を間違えているともいえる。あるいは、問題の提起の仕方がまずかったか。なにが問題かを見極めるのは難しいことだ。問題を適切に理解し、提起することができればその時点で問題の半分以上は解決されているだろう。私たちは種々の問題に対して与えられていることがなにで、それをどう考えるかという思考過程に往々に陥るけれど、前提を、一歩目を疑うことを契機にして問題が解決されることも少なくないことにはいつだって留意しなければならない。たとえそれが変えるのがきわめて困難なものだったしても、前提を簡単に甘受して諦めてしまったら、変えられるものも変えられなくなってしまうだろう。事実歴史の転換点においては、既存の制度が打倒され、それに取って代わるものが新しいルール、前提を生み出してきた。

 私が思うのは、たとえばこれは私個人の話になってしまうけれど、大学院に進学したり、そうして司法試験に合格し、法曹になるということは価値観に根ざした大切なことではあるけれども、それはあくまでも目標に過ぎなくて、やはり私にはどうしてもそういう類のことはささやかな問題に映ってしまうということだ。ささやかということに否定的な評価をしているわけではない。簡単に諦められることではないことだから、大切なことではある。それでも人生において、そういう目標として設定される類のことは代替可能性がある点で、私にはささやかな問題に映る。じゃあ個人のレベルでみて、代替可能でない切実な問題とはいったい何なのかということになる。私は「夢」や「理想」がこれに当たるのではないかと思っている。ずっとそんな予感がしていた。努力や時間をかければ達成できるだろうと思える「目標」とは一線を画するものとして「夢」「理想」が私にとっては代えがたい価値を有する。

 どちらも抽象的な言葉だ。抽象的な言葉は、辞書をみて一義的に意味が決まらない。その言葉にどのような意味を持たせ使うのかには一人ひとりの具体的な個人の価値観やライフスタイルが多分に反映される。いわば「信念」の反映のようなもので、私はそこに美しさを感じ取る。



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