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下火になった(ように見える)「主権者教育」に取り組むお話

「主権者教育」っていう言葉が嫌いです。「主権者」って「教育」されて「なる」っていう前提が透けて見えるので。そのあり様とは対照的なのが主権者というあり様だと思うんですよね。

この記事では「そういうあなたはどんなことに取り組むの?」を書きたいと思います。

「主権者教育」。18歳に選挙権年齢が引き下げられた2015-2016年あたりで全国的に盛んになってメディア、特に新聞でたくさん取り上げられました。
私はその頃、ちょうど高2とか高3とかの学年主任や担任をしていたので自分の学年でも取り組みました。
生徒会や学園祭の役員選挙が盛んな勤務校では、模擬選挙の必要はないと考えたので、そもそも立法って何?とか、主権って何?とかを専門家に尋ねるという学びです。

なので、衆議院議員さんや県議会議員さん、報道に携わる新聞人の皆さまにご足労いただき、生徒たちとお話しをしていただきました。
知らないこと満載で、教員が出しゃばらなくて良かった、としみじみ実感したことを覚えています。
その後しばらく学年から遠ざかっていたので何もしていませんでしたが今年度は成人年齢の引き下げもあるし、「やろう!」ということで企画中。

打ち上げ花火にならないように私の授業と連動させるので、教材として教科書に載っている「ものとこと」木村敏の内容を援用することと、新聞を使うことにして、後はどうするか考え中です。

「ものとこと」で論じられている内容を思考の観点として、「私とは何か」「主権者としてのわたしとは何か」ということを考え、考えを共有し、アウトプットして学校外の方との対話を試みてみたい。

わたしはものではなく「こと」。はっきりとした形や所在をもたず不安定である。だから客観的な「こと」の世界に支えを見出そうとするがそうはならない、ますます不安定になるだけ。

わたしという「こと」は定位不可能

わたしは、○○のわたしであり、△△のわたしでもあり、私の中には、いろんなクズな人間のかけらがたくさんある(金原ひとみと植本一子の対談から)

主権とは「国を統治する権力」のこと。「権力」は「もの」?「こと」?主権者とは「こと」であるとしたら、主権者とはどんな「こと」なのか?

主権者という「こと」は、人や世界との出会いによってあり様を変えるのではないだろうか。

そうだとすると人や世界に出会ってもらう機会をつくるのが学びをコーディネートする側の役割となる。

新聞で世界と(ちょっとだけだし「レンズ」は誰かのつくったものだけれど)出会ってもらおう。

そして「わたし」や「あなた」ってなんだろうって問うてくれる人に出会ってもらおう。

これが今年度の取り組みの骨子です。

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