父と私と熱帯魚
写真を撮る時、被写体があまり近すぎると、
ピントが合わずぼやけてしまうように、
子供の頃は、自分が置かれている家庭環境が日常で、
父や母があまりにも近しい存在であったため、
今よりも、それらが大分ぼんやりと見えていたと思う。
けれど、歳を重ねるにつれ、
父や母を、一人の“人間”として、見れるようになり、
さらに、少なからず人生経験を積み、理解が深まるにつれて、
解像度は上がり、それらの輪郭が、急にくっきりと見えてくる。
そんな瞬間が、時たま訪れる。
それは、今年のお正月の出来事だった。
私は父に会いに行った。
私の父母は離婚しているため、
父は、昔家族4人で暮らしていた、
一人で住むにはあまりに広すぎる二階建ての家に、老猫一匹と住んでいる。
父は、大工職人で、働き者で、
単純明快な性格で、バイクに乗るのが趣味だ(生まれつきのスピード狂)
今は少し遠い場所に家を作りに行っているらしいのだが、
本当は会社の方で手配される宿から通った方が体力的には断然楽なのに、
猫が1匹になって可哀想だからと、
1時間半かけて毎朝車で通勤している。
そんな心優しい性格でもある。
今年のお正月は、兄とも予定が会い、
しかも兄が友達を2人連れてきたため、
ガランとした家が急に賑やかになった。
父と兄と、兄の友達と私で円卓を囲み、海の幸を食べ、お酒を飲んだ。
父は上機嫌で、たくさん日本酒を飲んだ。
そんなにお酒を飲む父を初めて見たので、
心配になりチェイサーばかり勧めまくって軽く叱られた。
最後はなぜかみんなで人生ゲームをし、
父はゲームの中で“タレント”になった。
老猫は、人がそばにいるだけで安心するようで、
ずっとゴロゴロ喉を鳴らしながら、
父のすぐそばで眠っていた。
父はアラサーの兄の友人たちとも、会話を楽しんでいて、トークは冴え渡っていた。
普段私と兄以外の同性代の人間と父が話している姿はほとんど見たことがなかったので、そんな父は新鮮だった。
なんだか夢のような夜だった。
次の日、父は、ホームセンターから、ビーシュリンプを何匹か買ってきた。
ビーシュリンプとは小指の先くらいの小さなエビである。
父は昔、熱帯魚に凝ったことがあり、一時期は家に水槽が5個くらいあって、ネオンテトラやグッピーやプレコや、ビーシュリンプなど、色んな生き物を育てていた。
小学生の頃の私は、それを眺めるのが好きで、
2時間くらい眺めていても飽きなかった。
そして、ビーシュリンプがせっせと苔を掃除したり、グッピーが綺麗な尾ひれをなびかせて泳ぎ回る姿を眺めながら、隣にいる父とたくさん話をした。
一体何をそんなに長い時間話していたのか、全く思い出せないのだけれど。
いつのまにか、父の熱帯魚に対する熱は下がってきて、
2011年、地震で沢山の魚が死んでしまってからは、水槽の中はプレコ一匹になっていて、
寂しい状態だった。
そんな水槽に、可愛らしいビーシュリンプが数匹舞い込んだ。
それを眺めながら、父が話し始めた。
子供の頃は、家でいろんな動物を飼っていた話から始まり、父の育ての親の話になった。
父は、生まれて間もなく、血の繋がった両親と生き別れ、ある人の元に預けられた。
だから父は生みの両親の顔を知らない。
早い話、父は捨てられたのである。
その、義祖父については、あまり詳しい話を聞いたことがなかったのだが、
かつて本棚に古いアルバムを見つけ、
その中に半裸で義祖父が幼い父と写っている写真を見つけ、
軽く衝撃を受けた。
何故なら、義祖父の両肩には花吹雪が舞っていたからである。
つまり、そっちの世界の人であるということなのだが、その時はそれ以上に踏み込んで尋ねる事はしなかった。
父が両親に捨てられたこともそうだし、父の生まれ育ちや家族について、
あれこれと問いただすようなことは、父の聖域に土足で踏み込むようなことだと思い、憚られた。
しかし今回、その義祖父について、初めて詳しく知ることになった。
私の地元には昔、炭鉱長屋があって、そこには全国から集まった労働者たちがひしめき合って暮らしていた。
しかし、炭鉱で働くというのは、
命がけのことであり、
気性の激しい、荒くれ者達も多く、悪さをしたり問題を起こしたりする輩も中にはいて、
そう言った面倒な問題を一手に引き受けていたのが義祖父だったらしい。
だから、父が義祖父と暮らした家は、上等な建物で、人望の厚い義祖父の元には、全国からありとあらゆるものが送られて来ていたという。
飼っていた動物というのも、大半が贈り物で、
当時にしては珍しく、高価な、ドーベルマンや、パグがいて、車もプレゼントだったらしい。
そして義祖父は豪快で気前の良い性格であったため、
例えば貰い物の有名な画家が描いた絵を見せて、欲しそうな人がいると、
じゃあお前にあげるよとポンとプレゼントしてしまうのだという。
そんな訳で父は、穏やかとは言い難いが、なかなかに裕福な家庭環境で育ったようだ。
ちなみに父が、学校の課題で、親の職業を発表するというものがあって、
父はなんて書けば良いのか困ったらしいのだが、
義祖父には「自由業と書いておけ」と言われたそうだ。
そして義祖父は酒豪であったため、
40代後半で癌にかかってしまうのだけど、癌が発覚してからも、全く酒を控える事はなく、毎晩浴びるように飲み、
50歳そこそこで、濃く短い生涯を終えたのだという。
私はそんな義祖父の話を聞いて“イカす”と思った。
私は後先考えず“今”を本能のままに生きている人が好きだ。
それにゴッドファーザーみたいでかっこいいじゃないかと思った。
ちなみに義祖父が亡くなった時、父はまだ中学生で、中学を卒業すると同時に家を出たらしい。
つまり、父は中卒だった。
それも知らなかった。
大学を出ていないのは知っていたし、本を読んだり字を書いたりしている姿を数える程しかみたことがないけれど、高校は卒業していると思っていた。
ちなみに父の話は、自慢ではないが、
大学を卒業している私なんかよりも、とても分かりやすく論理的だし、
自頭がとても良い人なのだと思う。
ちなみに、父を捨てた実母に関することなのだが、
高校の美術の教師で、ものすごく綺麗な人だったらしいと昔母が言っていた。
それを聞いた当時、私は、それは母が安易に作り出した勝手なイメージ像なのかと思っていた。
なぜなら母は、父の証言とは反し、父の両親は父が幼い頃事故で亡くなったという嘘の設定を私に吹き込んでいたからだ。
しかしこの機会に際し、真相について母に尋ねてみたところ、確かにその情報は真実らしいということが分かった。
確かに父は、大工職人には似つかわしくないほど、顔立ちが整っていて、少し日本人離れしている感じで、子供の頃はそんなかっこいい父が自慢だった。
そして、私の顔は父親似だ。(自慢じゃない、いや、自慢か)
さらに、父も絵が上手なのだけど、
私も子供の頃は絵を描くのが大好きで、
小学生の頃は図画工作の時間が一番の楽しみだったし、
中学も美術部で、ちょっとした賞を貰ったりしていた。
やはり私は、父方のDNAを濃く受け継いでいるのだ、、
そうして私は、人生で初めて、
今まで一度も会ったことも、姿を見たこともない、
そして、運命の歯車がもう少しずれていたら、私の“祖母”となったであろう人に対して、
思いを馳せた。
血は繋がっているが、一度も会ったことはない。
そもそも父方の家系が、父本人はもちろん、私の人生でも、空白なのだ。
生まれてからずっとそうだったし、それが当たり前だったけれど、よく考えたらなんだか不思議な気分になった。
私の父方の祖母。
もうこの世にはいないかもしれない。
生きているとしたら、90歳くらいだろう。
その人は、父を捨てたことに、罪の意識に苛まれたりしていたのだろうか。
そして、もしかしたら、自分には血縁の孫がいるかもしれないと、
一瞬でも、思いを巡らせたり、したのだろうか。
そして、私はその人が父を産んでくれたおかげで、今ここにこうして生きている…
そんなこんなで、今まで私があえて踏み込まずにいた、父の生い立ちや義祖父、祖母に関する事柄が、次々と明らかになったお正月だった。
そしてそれは同時に、私自身を知ることにもなる、人生の中の重要なワンシーンだった。
それにしても、父は本当に面白い。
若き頃、髪を緑に染めて、バイクを飛ばし、一度死にかけたことがある父。
震災後、一緒にドライブをして、海辺の断崖絶壁に立つ灯台の手すりに、いきなり仁王立ちして見せた父。
正月に、庭に刺したみかんを仲睦まじくついばむ二匹の"メジロちゃん"に目を細める父。
どれも、父だ。
そして、まだまだ私の見たことのない父が、いるのだろう。
この人が私の父でよかったな。
そして、私は、人はこの世に生まれてくるとき、天から色んな人を見て、この人がいいと、両親を選んで生まれてくるという説を信じている。
だから、私はこの人を父に選んで生まれてきたのだ。
ほんと、自分ナイスチョイス。
そんなことを思った令和二年の正月だった。
ーあとがきー
こんな得体の知れない私の文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本当は、2月にはほとんど完成していたのだけど、書くだけで満足してしまって下書きでずっと残っていた、、
noteのおかげで、「父のことを書いてみたい」という私の望みが叶いました。ありがとうnote。
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