何者でもない。ただ「私」であるということ。
「何者かである」ということ
先日、グラフィッカーとして、イベントでグラレコをさせていただいた。
有り難いことに、グラレコを描き終えた後、こんなふうに声をかけられた。
「美大出身なんですか?」
私の描いた絵を、そんなふうに評価していただいていることに感謝しながら、
「普通の大学の社会学部で教育を学んでいます。」と答えた。
するとこんな反応が返ってきた。
「え〜、おもしろいですね!」
私は、おもしろいという反応が返ってくることがおもしろいと感じた。
人間って、人を見る時に、
表面的な枠組みや形からまずは判断しているのだと身を以て体感したから。
私自身、大学では社会学部で教育を学んでいて、
グラレコもやっているということをおもしろいと思ったことはなかったから。
だって、それが「私」だから。
ただ「私」でしかないから。
それでも、このように「おもしろい」という言葉が返ってくるという事実は、
私たち人間は、外見的な肩書きによって、その人が「何者かである」ということを大きく決めているということを示しているのではないか。
ただ「私」であるということ
だが、そもそも、人を「何者である」としてみなすことはできるのか。
人って、もっと多面的な存在なのではないか。
私は、グラフィッカーとして活動している。
それは、グラフィックの可能性をすごく感じているし、
自分が描いた絵で誰かの心が動いたり、他者や場に貢献できることに充実感を覚えているからだ。
しかし、私は、究極的にはグラフィック一筋で生きていきたいとは思っていない。
それは、グラフィッカーである自分というのは、社会に貢献する形のひとつであり、掛け算の項のひとつであると考えているから。
だから、私は、
「美大出身なんですか?」
と声をかけられた時に、とても複雑な気持ちだった。
グラフィックを評価してくださっているということに対して有り難さを感じながらも、
一方で「グラフィッカー」というフィルターを通して、私は、見られているということに対して、なんとも言えない気持ちになったからだ。
私は単にグラフィッカーであるというだけではない存在だということを、
どう表したらいのかわからなかったのかもしれない。
グラフィックも教育も場づくりも社会学も好き。哲学も音楽もアカペラも好き。
大学では教育社会学専攻だったけど就職先は広告系で、運動は未経験だけど、ハーフマラソンに挑戦してみたいと思っている。
これは何者でもない。おもしろさを追求したわけでもない。
ただ「私」であるというだけである。
外見や肩書きの一言では「私」を表現できない。
もっと多面的で複合的で複雑なんだと感じた。
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