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群馬から山梨、そして神奈川へ 〜運命を決めた一本の電話〜

辿り着いた昭和村

ひょんなキッカケで群馬へ行くこととなりました。今考えると群馬における経験が今の自分に繋がってきていると言っても過言ではないかもしれません。

いざ群馬へ来てみると土地がとにかく広い。昭和村インターから降りるともうそこは畑という畑で、少し進むと味の素さんの研修所があり、近くに道の駅があって、その中に足湯がありましたのでよくそこに浸かったりしていました。東京九段下のITベンチャーを飛び出して、農業の世界に逃げるように足を踏み入れてから早7ヶ月が経っていました。

実際にいたのは5ヶ月間だけでしたけれども、個人的にはとても濃密な経験をさせて頂いたように思います。まずタイの研修生の方々と出会い、G社は加工場と農場を持っているような大規模な会社さんでしたから、一緒に仕事をするのは当たり前の環境下でしたから、休憩中や仕事が終わった後はよく話をして、晩御飯を一緒に食べようということで一緒に食べて、沼田市にアパートを借りたのですが、帰った後にシャワーを浴びるのが億劫だと感じた時は昭和村の温泉がリーズナブルな価格で入れたので入ってからアパートに戻ったりとそんな日々を過ごしていました。

ちょうど僕はあの頃、最初に就職した中堅小売企業さん、次に働いたITベンチャーとフラフラし過ぎた結果として、「自分には結局何もできなかったんだ。自分は必要とされていないんだ」と自暴自棄になって、精神的にもボロボロの状態が幾ばくか続いていて、ひどく傷付いていた状態でしたから、タイの人たちの優しさに触れて救われたことは数多くあります。あの頃に出会っていなければ僕は人に戻れていなかったかもしれません。もう会えないであろう人たちも数多くいるとは思いますけれども、故郷で元気に過ごしてくれていればそれでいいと考えています。

ちなみにアパートのすぐ近くは大河ドラマ「真田丸」でも出てきた沼田城の城址があったこともあり、「あの真田幸村もこの場所で生まれ育ったのか。始めて見た大阪城の荘厳さはさぞ驚いたことだろう。だけども、同時に豊臣家の衰退も目の当たりにした訳だから、まさに諸行無常とはこのことなのだろう」と感じさせられたものです。

話が逸れてしまいましたが、主にやった業務はコンニャク、白菜、ブロッコリーの収穫・運搬。そして、コンニャクの加工場での勤務。毎週火曜日に高崎にあるパソナさんの事務所へ出向いて講習を受けました。最初の2回は沼田駅まで歩いて行き、電車に乗って高崎駅まで行き講習を受けて帰ったものの、電車は1時間に2本しか来ない有様でしたから、「これはもう車で行こう」と思ったのは今ではいい思い出です。パソナさんの研修で講師の方がおっしゃっていたことの意味が何となく分かる程度でしたが、様々な経験をしてきた今ではより深く分かるようになりました。実際に何事も経験してみなければ分からないのはどんな時代であれ、変わらないということでしょう。研修の中で、農耕車限定の大特免許を取らせて頂いたりと良くして頂いたことも今、農業を相模原でやる上で大きく活きてきているように思います。

群馬から山梨へ

パソナさんがセッティングして下さった研修期間は5ヶ月でした。パソナさんや加工場の責任者の方からは「古泉さんには群馬に残って欲しい」と言われましたけれども、「お言葉は大変ありがたいのですが、僕は神奈川へ戻ります」とお伝えしました。G社も大変素晴らしい業績を挙げておられますし、想像を超えるであろう、苦労の末に今の形が作られていったのはすごいことです。ただ、神奈川に戻ろうと思ったキッカケは個人的な全くG社とは関係のない理由で、猛烈に雪が降る結果、実に寒いということ。雪が猛烈に降ってしまったら何もできない状態が続きました。元々、僕は地元が大好きですし、一時期は「群馬に残っていいかもしれない」と考えたりもしましたが、最終的には「やはり地元神奈川へ戻ろう」と決心し、契約期間の5ヶ月を終えて神奈川へ戻ることにしました。同時に「僕はこの道でやっていっていいかもしれない」と決意が固まった瞬間でした。

神奈川に戻ったはいいものの・・・・・・・

タイの人たちやお世話になった方々へお別れを告げて、最終日の勤務を終えた後、元々アパートにはほとんどモノを置いていませんでしたから、ササッと自分の車に荷物を全て積んでアパートを後にし、その日の内に地元海老名へと帰りました。そして、しばらくしてからアパートの管理会社の元へ行き、契約解除の手続きを済ませ、アパートを掃除し、最後に昭和村の足湯に入って海老名へ戻ってきました。

ただ、問題があって、戻ってきたのはいいものの、農業での働き口がないという問題に直面します。これは農業をやられている方でしたら分かる話ではありますが、農業に入ろうと思っても働き口がないという構造問題に直面します。農業へ入るためのルートといえば農業学校に入って勉強してから独立就農するか、親御さんが農業をやられていらっしゃる方ならば親御さんの後を継ぐか、どこかの農家さんへ研修しに行き、ゆくゆくは独立するかの選択肢しかなく、「独立ではなく、ただ純粋に働きたい」という方のニーズには応えにくい状況が立ちはだかっていました。それは今も尚、続いています。

そんな状態の中、山梨のS社へ一週間研修へと行ったわけですが、研修は研修に過ぎず、就農を約束された訳ではありませんから、一週間経過後に神奈川へと戻ることになります。戻った後に働ける場所は色々と探しましたが、見つからず、「これはもうダメかもしれない。農業を辞めたくはないけれど、見つからないのではどうしようもない。独立就農するとは言っても技術も資金もなければやっても無駄でしかない。だったら農業に関係するところで働いて、農業に関われればそれでいいか」という気持ちで、横浜の農作物の販売会社に電話し、「明日面接に来てください」という返事を頂いたその日の夜に一本の電話がかかってきました。

諦めかけた矢先の一本の電話

電話の主は農業学校教師だった祖父の教え子のKさんでした。少しばかり話をした後にKさんはこう言葉を続けました。

「農業を諦める必要はない。君に会いたいと言っている人がいる。農業高校へ人を探しに来たらしいが、農業をやりたいと言っている男がいると言ったら向こうが「その若者に会おう」と言ってきたよ。明日、会うだけ会ってくれないか」

その知らせを聞いた僕は「もちろん行きます!」と即答しました。その電話がなければ僕は明くる日に横浜に行ってそのよく分からないフルーツの販売代理店のようなところでボロ雑巾のように働かされていたかもしれません。前述した販売会社には「申し訳ありませんが、応募を辞退させて頂きます」と電話連絡させて頂きました。思えばあれは運命を分けた瞬間でした。あの電話がなければ今の僕はいないのは紛れもない事実です。

そしてGW突入前の2013年5月2日。僕が相模原へと足を踏み入れることになる運命の瞬間が訪れ、代表と初めて会った日でもありますが、ここから先はまた次回にでも記そうと思います。こうして書いてみると自分を見つめ直すいい機会になっているようにも感じます。勝手気ままに書いておりますが、気が向いた時にでも流し読みして頂けると幸いです。

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