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自分とは違う「他」との付き合い方について。

「他」とは、ここでは、「自分とは違うもの」と定義する。
例えば自分と違う血液型の人、自分と国籍が違う人、自分とは違う政治観。

様々な「他」に囲まれて生きている中で、感じたことを書く。

「違う」ということが原因で悲しいことがたくさん起こっている。
年齢の違いによる当たり前の違いによって、若者が不当な評価を受ける。
学びに対する姿勢の違いによって、勉強好きな子がバカにされる。
宗教の違いから戦争が起こる。

「違う」という言葉には、どうしてもマイナスのイメージが付きまとう。

自分と少しでも同じ・似ている人との方が、仲間になりやすい気がする。
私もそう思う。

ただ、私があまり好きではないのは、

「違う」ということだけが原因で、それをはじめから拒否する

ということである。

例えば、
・アニメが好きな人=きもい→近寄らない
・(文系の人が)「理系は根暗」→近寄らない
・同性愛者=変人→近寄らない
・自分と逆の政治観の人=敵→近寄らない
…といった風な感じだ。
(拒否される例にいくつか出してしまって、例だとしても申し訳ない。)

拒否する(嫌う)根拠がしっかりあるなら、それで良いと思う。

けど、拒否するための確固たる根拠もないのに、「違う」ということだけで拒否するのは、なんか違うよなあとなる。

和解に近づく、平和な世界に近づく可能性を捨てているのではないか、
とかかっこつけたことを考えてしまう。

どんなものにも、
・「好きと思える部分」
・「どうやったって好きになれない部分」

があると、私は勝手に思っている。

例えば、私はコーヒーがとても好きなのだが、
・「淹れているときの幸福な香り」は好き だが、
・「体調がすぐれない時に飲むとお腹を壊す」ところは好きではない。

とか、大好きな地元(富山県)は、
・「のどか、水が美味しい、山が雄大で美しい」ところは好き だが、
・「どこに行っても人が残念ながら田舎っぽい」ところは好きではない。

どんな<好きなもの>に対しても、「どうやったって好きになれない部分」が存在する。

ということは、どんな<嫌いなもの>に対しても、「好きになれる可能性がある部分」が存在するのではないのだろうか。

その「好きになれる部分」を知らないまま、
「どうやったって好きになれない部分」しか知らないまま、
「無理」「絶対やだ」といった判断を下してしまうのは、
平和な社会のためにも、そして、自分の世界をひろげるという観点からも
あまり喜ばしくないことのように思われてしまうのだ。

「好きになれる部分」を知ったうえで、それでも、「どうしても好きになれない部分」のウェイトが勝って、最終的に「好きじゃない」という判断を下すのは問題ないと思うのだが・・・。

もっと知らない世界を見てみたい、その人間だったらあっておかしくない感情に任せて、現状好きではないものについても、ぜひ見てみたいと思うものである。

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