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大学生らしい文章だなぁと,

部活の後輩にあたる人たちの文章を読んでて思う.

自分もかつて所属していた部活動には,最上級生になった時の決意,現役引退した時の追憶,と1年に2回自分の思いみたいなのをつらつらと世間にさらす機会がある.ふと目にした1人の追憶を見た最初の感想がこんな感じだった.

良い悪いという話からではなく,むしろオトナの書く文章って何だろう,というところから話は始めたい.

日頃僕が触れる文章というのは,論文とか教科書とか新聞みたいに説明的なものか,小説みたいに言葉そのものでお金を稼ぐ人か,描かれた人物が語るか,みたいなものがほとんど.社会人の皆さんは箇条書きの契約書とかキレイなプレゼンとか,そういうものが支配的だと思う.あとはTwitterか.

これらは1. 論理的な構造が重視されるか, 2. 言葉遣いのトップオブトップによる文章か,のいずれかだと思う.書きやすい文章か,書く人がめちゃくちゃ上手いのか,と言い換えることもできると思う.僕の思うオトナの文章とはこんな感じ.

日頃そういう文章を何気なく読んでいるけれども,意外とこの範疇から抜け出た141字以上の文章に出会うことは少ないんじゃないかと思う.そして後輩の追憶というのはその珍しい部類に入りそうである.

多くの人間は長文による表現にさっぱり慣れていないように思う.自分の考えるオトナの文章その1. は表現に含めていない.基本的にただの情報の伝達,である.追憶は自分の思ったことを自由に,おそらく書く目的も共有されずに気ままに書けてしまうから,場合によっては独りよがりの何とも言えないものになってしまうが,半分くらいは他人にも伝わりうる,表現のカタチをとなるものだと考える.

読ませてもらった後輩の追憶が特に駄文だとは感じない.誰かに伝えようと意図して書かれているように見えるし,ゲンナリするような誤字も校正しているように思えるためである(自分の名前を間違えたことはあえて見逃すとして).ただ最初に感じた「大学生らしい文章だなぁ」はネガティブな意味を含んでいると,振り返って思う.

どう表現して良いかわからないから説明的な手法を取ってしまっている.つまり時系列であったり,要素を箇条書きにしたりする.大学で求められるレポートなどの類で,流石にまともな大学の人だからこれにはある程度慣れているし,そう言った意味では整然と書けちゃうのだが,表現としてはいまひとつ面白く感じられない.というのも自分が日頃何気なく触れる表現というのはオトナの文章2.みたいな,プロの言葉であって,これと比較してしまっているからだと思う.

そもそも世の中に蔓延る論理的だとか説明的なものの書き方に割と僕は否定的で,どんな情報にしても,相手に最も意味のある伝え方は要点とか本質と呼ばれるモノを理解していることだと思うのである.ロジック云々で得意げにしているのはレベルが低いんじゃないかなと感じる.論理とか整然とした文章の書き方はただの道具であって,使いこなしている風なことに価値はないはず.

自分の気持ちの要点とか本質みたいなモノが何となく分かって,それを文章に込めるのならば,何も説明的に書く必要はないと思うし,もっと遠回しな言い方,抽象的な表現,言葉遣いの変化などがあっても良いのではないだろうか.大学生どころか並の人間に求めるレベルではないとは承知しつつそんなことを感じた,というのが結論である.

最後に書きながら感じた矛盾を2つ.1. 感情の要点を伝えたい文章は往々にしてわけがわからないというか,"独りよがりの何とも言えないもの"になりがちだなということ.頑張った結果訳が分からないのか,本当に訳が分かってないのかの判断は僕には出来なさそうだなということ. 2. 偉そうに批判しているこの文章そのものがとんでもない駄文だよなぁということ.自分を棚に上げて好き勝手な発言となりました.

たまたま読んでなるほどとなりました.とはいえ良い人間だなと感じた次第です.

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