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#288 福岡・天神発展から見る近現代史

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

二日前から福岡に来ており、本日無事に仕事を終えて、これから東京に戻る予定です。

「せっかく福岡に来たのであれば、もっと福岡のことを知ろう!」と考え、昨日は現在の福岡の産業発展の大きな一助となった四島一二三氏についてご紹介しました。

今日は、天神の発展の近現代史を振り返りたいと思います。
「今目の前に見えているもの」だけではなく、目の前にあるものが築かれてきた背景を知ることで、より目の前のものの奥行きが出てきて、面白く見えてくるのを実感しています。

今回の出張では天神に滞在しましたが、天神の近現代史に関して、西鉄グループが「西日本鉄道 110周年記念史」として分かりやすくまとめている資料が公表されています。こちらから私が面白いと感じたところをご紹介します。

天神の成り立ち

江戸〜明治維新直後の天神

「天神」という名前は、「学問の神様」と言われる菅原道真で有名な水鏡天満宮に由来しています。1612年、江戸時代の福岡藩初代藩主の黒田長政が、「容見天神」を福岡城の鬼門にあたる現在地に移し、商人のまち博多と福岡城を結ぶ通りが栄えるようになりました。天満宮に面した東西の長い通りが「天神町(てんじんのちょう)」と呼ばれ、武家屋敷が並びました。

明治維新直後の1870年、贋札事件発覚(福岡藩が太政官札を贋造し、全国で使用した事件。贋札作りは、戊辰戦争での戦費負担で財政悪化した諸藩で行われていたが、福岡藩は規模が大きく、見せしめのために厳罰が下された)により、藩知事黒田長知は廃藩置県を前に罷免されます。後を追うように、天神町に居を構えた多くの旧藩士がこの地を離れていきました。
この屋敷跡に学校などの公共施設や、筑豊の炭鉱主などが別邸を構えられるようになります。

天神地区発展のきっかけ「共進会」

福岡県は、1910年の共進会開催をきっかけに、市内電車の敷設を始めました。共進会は、万博のような最新技術の物産展示会で、これが福岡市の近代化と天神発展の出発点となります。

市内電車は、膨大な先行投資が必要だったため、当時の福岡市の財政では資金調達ができませんでした。そこで、福沢諭吉の娘婿の実業家である福沢桃介氏と、後に「電力の鬼」と呼ばれる松永安左エ門氏が、市内電車敷設の難事業を引き受けることになります。

松永安左エ門氏の尽力により資金調達に成功し、1909年、路面電車を手掛ける「福博電気軌道」を設立します。松永氏は、軌道敷設突貫工事の陣頭指揮もとりました。
福岡における道路整備は、県や市が資金負担したことで他地域に比べても割安に建築できたことから、運賃を格安にして利便性を高めるほか、沿線の宅地開発、海水浴場などの娯楽産業も手がけ、乗客の支持を得るための工夫を行いました。

「公共事業として環境整備し、民間で開発する」という、現在の福岡市の都市戦略の先駆けであるとも言えます。

合併を繰り返す電力事業と路面電車事業

松永安左エ門氏が進めた「福博電気軌道」の計画と同じころ、現在の「渡辺通」の由来で、呉服商を営む渡辺與八郎氏は、博多駅と博多築港を結ぶ循環道路の計画を発表します。

さらに、この循環道路に電車を通す計画を実行に移し、1910年に「博多電気軌道」を設立しました。
呉服商を営む人が、二日市、太宰府への鉄道延伸だけでなく、鹿児島市の軌道敷設にも参加することで、九州広域へと商圏を広げる構想を持って鉄道事業に参加したという点、唸らされます。

先日ご紹介した四島一二三氏もそうですが、本当にこの頃の福岡には、優秀な事業家に恵まれたのを感じます。

当時、昼間の安定的な電気需要を埋める路面電車事業は相性が良かったため、電気事業と路面電車事業が合併を繰り返して大きくなっていきます。

https://www.nnr.co.jp/110th_history/pdf/02.pdf
P41より引用

松永安左エ門氏は、天神の可能性にいち早く目を付けており、福博電気軌道の本社も天神に置いていました。
後に福博電気軌道を合併した博多電灯鉄道と、佐賀の九州電気を合併し、松永氏らが主導して設立した「九州電灯鉄道」は、瞬く間に福岡、佐賀、長崎にまたがる一大電力会社になりました。

松永氏は、九州だけでなく、電力の全国展開を目指しており、九州電灯鉄道と商号変更した10年後の1922年には、愛知県に本社を置く「関西電気」と合併し、「東邦電力」となります。
最終的には、中部、関西、四国、九州にまたがる14府県に供給区域を広げました。

なお、東邦電力社長となった松永氏ですが、現在の西鉄(西日本鉄道)の前身となる「九州鉄道」の開業も推進しています。

さらには、慶應義塾時代の同窓で親交が深い小林一三が同時期に日本初のターミナル百貨店となる阪急百貨店を成功させたことを受け、岩田屋呉服店の中牟田喜兵衛を小林一三に紹介し、天神で九州初のターミナル百貨店となる「岩田屋」を開業するきっかけを作っています。

建物には、九州鉄道の乗り場案内を掲示し、鉄道駅と直結した百貨店とすることで、開業初日には10万人を超える買い物客を集め、天神地区の商業集積は加速しました。

この時代の事業家同士が繋がり、複数の産業をクロスさせて地域を発展させていったのも、面白いです。

戦前・戦後の変化

戦前国家による企業統制

太平洋戦争勃発後の1942年、産業別の企業統制を目論む日本政府の方針に従い、九州鉄道を含む五社が合併し、西日本鉄道が誕生します。

東邦電力も、1930年代以降の戦時下における電力国家管理の流れを受け、中部配電、関西配電などの国策電力会社への設備を引き渡し、1942年に解散しました。

5社に分割された東邦電力の電気事業は戦後、中部電力、関西電力、四国電力、九州電力へと継承され、現在に繋がっています。

戦後天神の発展

旧東邦電力ビルは、1945年6月の福岡大空襲により内部が焼失しますが、終戦後に「天神ビル」として再出発します。

「天神ビル」には三菱商事などが入り、天神がビジネス街として復興する過程で大きな役割を果たします。

九州電力は、天神町発展会の要望も受けて、1958年に天神ビルの建て替えに着手しました。施工は竹中工務店が担い、解体からわずか20ヶ月で高層ビル建築を実現しました。

「新・天神ビル」は、1960年に完成し、地下3階、地上11階建ての本格的な高層オフィス複合ビル時代の幕開けとなります。地下1階には飲食店、地下2、3階に九州電力の「天神地下変電所」が設置されました。

この建設計画では、のちに「天神地下街」の元となる地下街の計画が竹中工務店により提案されています。
天神地区の交通混雑緩和を目的として、1959年に天神ビルと岩田屋を結ぶ「地下歩道建設計画」が天神ビル社長と岩田屋社長から福岡県知事に提出されましたが、時期尚早として、ここでは実現しませんでした。

高度経済成長後の交通発展

60年代の急速なモータリゼーションとマイカーブームにより、天神地区の慢性的な交通渋滞が深刻化していきます。
そんな流れを受け、1969年には、九州電力社長の瓦林潔氏より「天神地下街構想」が改めて提出されます。その後、九州電力、西日本鉄道、岩田屋の三社長から懇願書が福岡県知事に提出され、1971年には福岡市も加わり、本格的な地下街建設計画がスタートしました。

天神地下街は、今回約15年ぶりに天神に来て、最初に最も印象的だったんですよね。黒っぽいテーマで統一されていて、ヨーロッパの街並みをモチーフとした特徴的なデザインで素敵でした。

高度経済成長後の1970年代に入ると、福岡市の人口は100万人を超え、政令指定都市となります。
1972年には「天神地下街開発株式会社」が設立し、1975年に地下鉄天神駅の建設に着工。福岡市地下鉄は、1981年から順次開業していきました。

1975年には山陽新幹線が博多に乗り入れ、新大阪-博多間が約3時間、東京-博多間が約6時間半に縮まり、1日行動圏に入ります。

高速道路も整備され、1975年には熊本-福岡が2時間弱で結ばれました。1979年に北九州市と福岡市が高速道路で結ばれると、西鉄は高速バス路線に本格着手し、九州北部のバス路線網を構築していきます。天神の商圏が拡大し、広域から集客されるようになりました。

日本各地での高速道路整備は、田中角栄が進めた1972年の「日本列島改造論」によるものですが、その原案はほとんど松永安左エ門氏の構想だったとも言われています。

松永安左エ門氏が「電力の鬼」と言われた所以なども興味深い話が多いので、また別の記事で深掘りしたいと思います!

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