幸せの風景

     日記より27-3「幸せの風景」        H夕闇
            七月四日(火曜日)曇り後に晴れ
 「両親と夫と子、親子三代でユックリお散歩するのが、私の夢。」娘が以前そう言ったことが有る。それが、かの女(じょ)の思い描く「幸せの風景」らしい。だが、そこへ辿(たど)り着くまでには、道々で幾多(いくた)の艱難(かんなん)を越えねば成(な)らなかった。
 昨今それらを漸(ようや)く乗り越えたようで、新生児が夜泣きの時期を終え、首が座って、(機会さえ有れば、)三代で散歩に繰(く)り出せる所まで辿り着いた。「夕べは寝られなかった。」と言っては母親にSOSを出す(父親も便乗して孫を見に行く)ことも最近はメッキリ無くなった。
 幼子(おさなご)に手が掛(か)かって、もう父母までは手が回らないらしく、呼び出しの代わりに、乳飲(ちの)み子(ご)の動画を屡々(しばしば)母親のスマホへ送って来る。笑った、と言っては送り、玩具を握れた、と言っては来る。そんな孫の姿を連日のように送って来るのである。寝返りを打った、一人で座れた、、、との発信が恐らく近い内にあることだろう。
 人生で最も多事多難な(けれども一番に幸福な)時期を長女は迎えているようだ。

 身内へ宛(あ)てて送信するに留まらず、不特定多数へ向けて拡散するSNSが今日はやるようだ。その方面に僕は全く白(しろ)う人(と)なので、余り大きな声では言えないが、お出掛(でか)けした観光地、目を奪われた絶景、舌も蕩(とろ)ける程だったスイーツ等々、インスタグラムは大賑わいの盛況と聞く。
 おいしかった、綺麗(きれい)だった、とてインスタ映(ば)えする画像が、盛(も)り沢山(だくさん)。そして、美しい画面の端っこに、ニッコリ満足気(げ)な顔も、多くは映し込まれている。そういうのを「自(じ)撮(ど)り」と云(い)うのだそうだ。
 「こんなに仕合(しあ)わせなのだから、私の幸せを皆にチョッピリお裾分(すそわ)けして上(あ)げたい。」といった具合いの小さな好意から始まった風潮らしい。「みんなも味わってみて!」と御贔屓(ひいき)の店の宣伝に一肌(ひとはだ)を脱いだ積(つ)もりかも知(し)れない。然(しか)し、「自分が感動した美しさを他者にも共有(シェア)して欲(ほ)しい。皆にも同じ喜びを味わってもらって、幸福を分け合いたい。」といった元々の善意は、然(しか)し「こんなに私は幸せなのよ。」と無意識の自慢へと容易に転嫁する可能性を孕(はら)んでいる。
 次ぎから次ぎへと幸運な姿を発信する内、時に旨(うま)い題材と出合わないことだって有るだろう。そのスランプを「偶々(たまたま)そんな時期も人生には有るさ。人生いつも仕合(しあ)わせ一杯(いっぱい)、って訳には行かないもの。」と軽く受け流す程の余裕が(人間的な成長が)有れば良いが、、、と懸念される。
 もしも若者が自画像の発信中毒とでも云(い)ったようなネット依存の心理状態に陥(おちい)った場合い、形の見えないボンヤリした焦(あせ)りや不安を覚えないか。幸せな自分を描き続けられないことは即(すなわ)ち我が不幸、といった図式にドップリのめり込んで、自家中毒の症状を呈(てい)することは無いだろうか。又は、更新中の膨大(ぼうだい)な自画像に自(みずか)ら酔(よ)い痴(し)れ、溺(おぼ)れ込(こ)んでいる内に、いつか自分自身の本当の姿が分からなくなっていることに、フと気が付く時が来ないか。それ程には幸せでもない己(おのれ)を華やかに装(よそお)って、世間(即(すなわ)ちSNS社会)を偽(いつわ)っている内に、いつの間にか自分自身までがフィクションに騙(だま)され、自己の正体を見失ってしまう。暮らしの様子を有りの侭(まま)に投稿しているのか、映像を投稿する為(ため)に生きて幸運を漁(あさ)るのか、、、時折り不意に(我ながら)分からなくなる。自分は噓(フェイク)を吐(つ)いたのか、あれは仮想(バーチャル)空間だったのか、と自信が無くなる。日常の味気ない生活と装飾された祝祭的なスマホ投稿、その乖離(かいり)、孤独なシェア、本末の転倒、混乱と混沌(こんとん)、、、
 こうしてアイデンティティが崩壊した時、その不都合(ふつごう)な真実を認めることを恐れて、人は幸福の見取り図を増(ま)す増(ま)す拡大再生産しないでは居(い)られなくなるのではないか。なけなしの財布(さいふ)を叩(はた)いて無理にも旅行へ出掛け、分に不相応な三つ星の有名店へ走る。勿論(もちろん)、そこで「幸せな私」を演出した自撮りを大量に発信し、より深く自己陶酔して行く。空虚の自意識を忘れる為(ため)である。又は虚構を真実へと追認する為である。幸福の幻想を社会へバラ撒(ま)いていたら、欺(あざむ)かれているのは(実の所)自分一人だった、という恐るべき迷路の構図。世の中は特定の個人へ常に興味と関心を抱いて注目してくれる程に親切ではなく、幻に振り回されていたのは自分ばかりだった、と後にツクヅク思い知らされる日がジッと沈黙して待っている。
 嘗(かつ)て近代日本の文壇が同様の心理的な危機に瀕(ひん)し、伊藤整が「小説の方法」と云う優れた評論を世に問うたことが有る。
 作家たちは私小説を描き続ける内に、自我や真実を追求する姿を演じつつ、自己の本来の人となりを見失って行くのではないか、といった疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)の不安に襲われる、と言うのである。然(しか)も、虚構のプロフェッショナルたちは更に一歩を進め、私小説を方法と化する。真理の求道者としての人間像を(作品を公表することに依(よ)って)クッキリと社会の中に作り上げ、一方で作家個人の内面は一層の空洞化を来たして行く、との論旨である。
 西洋文明に比して伝統に乏(とぼ)しい近代日本文学の歴史の中、私小説作家は、(その文筆活動の生業としての成功は扨(さて)置(お)き、)一個人の生き方として幸福だったろうか。文士の多くが精神を病み、自死を選び、酒や女や麻薬に逃げて、家族をも不幸に陥(おとしい)れた。人生に破綻(はたん)を来たした根本の原因は、そこに有ったのではないか。実生活と虚構作品(作者と主人公)の間に明確な境界線(けじめ)を引けなかった所に、芸術の魔が潜(ひそ)んでいた。西洋的なフィクションの作家「仮面紳士」に徹し切れず、創作を生(な)ま身(み)に丸ごと背負い込んだ日本の生活破綻者「逃亡奴隷」の悲劇である。
 個人の暮らしぶりを社会へ一般公開することを業(なりわい)とする義理も無いアマチュア・ブロガーは、アイデンティティを犠牲にしてまで幸福を装う必要は有るまい。忙しくて余り会えなくなった母親へ、精々(せいぜい)孫の手遊びする動画を送る程度に留めておく方が良い。               (日記より、続く)

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