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魔法の言葉を書き換える

Twitterの方が自然で飾らない関係が築けるのは、私だけではないと思う。口下手なのに、直接顔を合わせると無駄に「相手を楽しませなきゃ」と肩に力が入ってしまい、余計なことを口走っては相手に不快な思いをさせて、自己嫌悪に陥る。

だから、Twitterが流行り始めた直後なんて、その場所にこそ真実があると思っていた。リアルな人間関係はとにかく窮屈で、嘘にまみれているような気がしていた。

燃え殻さんに出会ったのは、私が「社会なんてつまらない人間の墓場」だと考えていた学生の頃だった。一番古いDMを見返すと、押されたタイムスタンプは2011年2月。10年以上前だ。

「当時は自民党が与党じゃなかったんだよ」と言っても、今の若い人たちには信じてもらえないかもしれない。まだアナログ放送なるものが存在していて、『笑っていいとも!』という伝説的な昼番組があったんだよと言ったら、「教科書の話だな」と思うだろう。松井秀喜は現役野球選手だったし、スティーブ・ジョブズもまだギリギリ生きていた。

あの時は、閉鎖的でクソみたいなアナログ社会を、か細くて小さな存在が変えうるのではないかという、牧歌的な希望が芽吹いていた。

そういう時期から、燃え殻というアカウントは、ボロ雑巾のように疲れていた。「怒られた」「やるせない」「無力」といったネガティブワードが並ぶ140文字。リアルの世界だと「そんなこと言うの、やめなよ」と言われそうな言葉たちが、奇妙な光を放っているように見えた。理不尽なクライアントにも出会ったこともなければ、怒鳴りつけられたこともないのに、私は首がもげるほどに頷いた。

どうあがいても日常は微動だにしないし、欲しいものは手に入らない。それなのに、テレビは「今こそ絆」と甘い言葉を日々垂れ流し、会いに行けるアイドルたちは「諦めるな 挑戦するんだ」と歌い、それがセブンイレブンで無機質に流れていた。私はそんな毎日に、うんざりしていたのだ。

だからこそ、不定期に投稿されるネガティブワードが、心地よかった。

燃え殻という人は、新宿のロイヤルホストで仕事をしているらしく、当初私は「もしかして、“菊池成孔”の裏垢では?」と妄想していた。ジャズミュージシャンの菊地さんは、私にとって、サイン会目当てに新宿のタワーレコードに足を運ぶ存在で、歌舞伎町の外れに住んでいることを口外していた。ほんの些細な共通点から、私は都合の良い妄想を育てていたのだ。2人の文体はまるで違うのに、一体何を見ていたんだろう。まぁそんな感じで、私はあまりに頭が悪かった。

それから燃え殻さんは、会社員として働きながら書いた『ボクたちはみんな大人になれなかった』でベストセラー作家になった。

燃え殻さんの物語に出てくる主人公は、使いっぱしりの仕事に疲れはてた男が多い。主人公「僕」の描写は、燃え殻さんのTwitterとリンクするところがあり、共感してしまうのも人気の理由なのだろう。Twitterと同じように私の欲しい言葉が、必ずそこにはある。

「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」

デビュー作に書かれたこの台詞が、刺さって抜けない人は多いのではないだろうか。社会に馴染めずふてくされている自分も、こんな風に誰かに承認されたかった。「かわいいね」ではなくて「おもしろい」という言葉で認めてほしかった。何なら私が「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」と言って誰かを承認さえしたかった。

自分が「大丈夫」な理由が「おもしろい」なんて最高ではないか。極めて主観的で内面的で、精神的な部分をカバーしているロジックが、私には「あなたはかけがえのない人です」という意味にさえ聞こえた。

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6月30日に発売された『湯布院奇行』の主人公である「僕」も、著者である燃え殻さんの面影が漂う存在だ。「僕」はなし崩し的に作家になったものの、締切と評価に追われ、憔悴しきって地下鉄に揺られる日々を送っている。

面白い、面白くない。売れる、売れない。バズる、炎上する。紙なら部数、ネットならページビューといった結果が出なければ仕事はすぐになくなってしまう。一見、自由気ままに見える物書きという仕事は、蓋を開けてみれば縛りだらけで、好き勝手に書けることなどほとんどない
(中略)
世の中には代わりはいくらでもいた。それはサラリーマンでも物書きでも同じだ。どうしてもあなたでなくては困る、そんな仕事はこの世に存在しない。すべての仕事は「でも代わりはいる」で回っている。
『湯布院奇行』

YouTubeだ、TikTokだ、noteだといろいろな表現チャンネルが増えたとはいえ、そこから自分を表現する職業にありつける人は、ほんの一握りしかいない。たとえ自分の筆で生計を立てられるようになったとしても、代わりがいる。一発ヒットを当てたとしても、名作のアイデアが降ってくるのを待っているうちに、また気鋭の書き手が現れてしまう。会社員なんてもっとそうだ。突然退職することになっても自分の仕事は誰かが引き継ぐ。別れた恋人は、1カ月もしないうちに別の女と夜を明かす。

どこまでいっても自分は代替可能な部品に過ぎないのだ。自分がいなくなったとしても、相変わらず社会は微動だにせず、巨大なパン工場のように効率的な生産を続ける。

「かけがえのない存在」になるのはなんて難しいのだろう。そういう当たり前のことに気がつく時、口をついて出るのは「死にたい」という言葉だった。

本当に死にたいわけじゃない。苦しいのは嫌だし、痛いのも絶対に避けたい。いや、多分死ぬ前にやりたいこともある。でもこの言葉は、つぶやくと心が軽くなるモルヒネのような存在だった。

「死にたいという感情は、遠くに行きたいということです」

『湯布院奇行』で「僕」はこの一言をきっかけに、仕事を投げ出して、彼の地へ向かう。湯布院の宿で「僕」は2人の女に出会い、彼女たちに半ば翻弄される形で、奇妙な日々を過ごす。

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『湯布院寄行』には、湯布院の塚原高原に伝わる『九十九塚伝説』が物語の重要なシーンで使われている。『九十九塚伝説』のストーリーは諸説あるようだが、大まかな流れは<人里に住みたいと願う鬼に対し、神が『一晩で100個の塚を作ったら要望を聞こう。でも間に合わなければ、二度と人里には来るな』と交渉する>というものだ。

<鬼はとてつもない速さで塚を作り、あとひとつで100個を完成させようとした瞬間、土の神が鶏の声の物真似をし、朝の合図をした。『間に合わなかった』と誤解した鬼は、岩屋に帰っていき、人々は平穏に暮らしましたとさ>と終わる。

鬼は本来であれば目標を達成できたのに、神に騙された挙げ句、里の仲間に入れてもらえない。

この話を聞いた時、私は「鬼はどんな気持ちだったのだろう」と考えてしまった。きっと、里の住民には鬼を歓迎できない正当な理由があったのだろうが、私は鬼の方に感情移入せざるを得ない。

新入社員時代、満員電車に揺られながら、無難なオフィスカジュアルを身にまとい、一生懸命「ふつう」に擬態していた。少しでもリズムがずれると「ご迷惑」をおかけしてしまう。昼には部署の先輩たちと昼食を食べ、飲み会ではお酌のマナーを学んだ。ラベルは上にしないと失礼らしい。

私は足並みを揃えることがとにかく苦手で、そのたびに周りを困らせ、苛立たせてきた。まず、声からして変なのだ。周波数の狂った声はどんなに声量を落としても相手に不快感を与える。オドオドしで背中を丸めながらみんなのリズムを読み取ろうとするが、一向に揃えられない。今にもパリンと音を立てて割れそうな空気を読み取っては「どうして私は、みんなができることができないんだろう」とうつむいた。新入社員時代のメモ帳には「個性なんて幻想。迷惑をかけないように」と殴り書きを残していた。

結局私はそういう社会から逃げてしまったが、「馴染めない」という感覚は未だに消えない。

「変わってるよね」と言われる度、頭蓋骨に小さなヒビが入る感覚がある。それは時に「よかれと思って」言ってくれることもあれば、揶揄のニュアンスを持つ時もある。どちらにせよ「馴染めていない」ことが露呈される瞬間で、私は「そんなことないですよ〜」と空笑いしてやり過ごしている。

いつだったか、少し気になっている男友達と複数人で飲んでいるとき、「嘉島は変わってるから、ニッチな層にはウケると思うよ〜」とアドバイスをされたのを覚えている。その夜、彼はその飲み会にいた女の子と一緒にネオンの向こう側に消えていった。

残念ながら、自分は「おもしろい」レベルにまで到達しなかった。代わりがいるレベルの「変わっている」人間は中途半端すぎて、行く宛がない。

『湯布院奇行』は、おとぎ話のお面を被った「おもしろい人間」になれなかった側の胸の内を書いている物語だと私は思っている。

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耳を澄ませていると、自分は有名人と知り合いだとか、あの仕事は俺がやったとか、恋人にブランド物を買ってもらったとか、いろんな声が四方八方から聞こえてくる。昔はそれが東京の暮らしを象徴するものだったのかもしれないが、SNSが普及しきった社会ではどの場所も「東京化」した単語が視界を埋め尽くす。

「ちょっと前までは、リアルな世界でダメな人たちがのびのびやれてたのがよかったんだけどね。やっぱりリアルな世界で勝てる人たちが、インターネットの世界でも強いよね」

そういう話を燃え殻さんとしたことがある。燃え殻さんとは、いつの間にか不定期に飲みに行くようになった。初めて会った時は「やっぱり菊地さんじゃないんだぁ」と少しがっかりしたものの、以来2人で飲みに行っては終電まで暗くてオチのない話をしている。なぜか燃え殻さんに当時付き合っていた恋人を紹介したことすらある。私は燃え殻さんをなんだと思っているんだろう。

話を逸らしてしまったが、燃え殻さんはすっかり売れっ子作家になったにも関わらず、Twitterで見かけた時のまま疲れ切っている。会うなり「調子はどう?」「最悪ですね」と挨拶するのもだいぶ板についた。そして身の上話や昨今の炎上騒動の話などをウダウダと語り尽くす。

2022年の今わかるのは、か細い何かは世界を変えなかったことだ。いや、変えたこともたくさんあったけれど、私が望んだ未来にはなっていなかった。多分、都合のいい未来は、自分が変わらないと手に入らないのだろう。厳しい現実に気がつくと、あの魔法の言葉がまた口から出てくる。

「死にたいですね」
「やっぱ疲れるよね、毎日」
「ばっくれたいですね」

頭が痛いわけでもないのに、左手で額を抑えてテーブルの端っこを見ながら話す。視線を上に上げると、向かいに座った燃え殻さんがナポリタンをフォークでくるくると巻き付けていた。それを飲み込むと、口角についたオレンジ色の油拭いながら口を開いた。

「誰も自分を知らない所に行きたくなるね…マカオとか」
マカオ。正直言って燃え殻さんに似合わなさすぎる場所だ。
「いや、それは遠すぎませんか? 私はちょっと嫌かも…」
「嘉島さんはそうでしょうね! ははは。日光似合わないもん」
「日光嫌いですね…」
「とはいえ、遠くに行きたいってことなんだと思うよ、死にたいっていうのは」
「いいですね、死にたいは遠くへ行きたい」
「これをコンセプトに物語を書くのは……どうかな」
「……読みたいかもしれないです」

言葉には不思議な力があり、口に出し続けると頭を占拠してしまう。心の底から「そうしたい」と思っていなくても、言葉を吐き続けるうちに思考が染まっていってしまうのだ。私はガス抜き的に、この魔法の言葉を口に出してしまうのだが、もっと適切な表現が欲しかった。

「生きよう」とか「諦めるな」なんて高ワットな言葉なんて欲しくない。

居場所がなくても、所在がなくても、社会が微動だに動かなくても、本当は死にたくない。ただ、すべてを忘れて遠くへ行きたいだけなのだ。この甘い夢にいつか溺れてみたい。

「死にたい」と言う代わりに「遠くへ行きたい」と口に出そう。そうすれば、ちょっとは世界が変わるかもしれない。クソみたいな日常は、遠くから見れば思ったよりも悪くはないはずだから。


※この文章は、燃え殻さんの新作『湯布院奇行』の解説文です。嘉島は構成協力として本作に携わらせていただきました。

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