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書くという行為について

言葉に力なんて宿ってない。期待もしていない。

迷いがなかったことは、一度もない。

高校生の時、小論文の授業で自分の過去を振り返ることがあった。今まで世間についてきた嘘がバレていくようで嫌だった。つらいし、痛いし、みっともない。文章を書くとはそういうことだ。

じゃあ、なぜ私は書くのだろう?

少し前まで「誰かのために」とか「救いになれば」と思っていた。

文字に力なんてないと思いながらも、実際私はいくつかの文章を読んでは、涙を流し、心を打たれた。だから、自分もいつかそういうものを作ってみたいと願った。

社会に生きているのだから、せめて誰かの役に立ちたい。そうでなければ、価値がないと思っていたからだ。

でも、この考えが大きく揺らいだ。

きっかけは、ある音楽家だ。彼は静かに、軽やかに、ふふっと笑ってみせた。

「何かを作る時、誰かを救おうと思うのは……傲慢でしょう? 病的だよ。恥だと思う」

白い日差しに包まれながら、優しくそう言った。

私はこれまで彼の音楽を聴いては、心を落ち着かせ、現実逃避もしたし、安らいだ。面接の前、仕事からの帰り道、電車の中、ソファの上。そして時々、コンサートで聴いては、胸を震わされた。それを救いと言わずになんて言おう?

でも、目の前にいる彼は「勝手に作っているだけ」と言う。

恥ずかしい気持ちになった。

自分が密かに掲げていた矜持のようなものが、とても軽薄な……美辞麗句だとわかったからだ。

それからずっと考えている。

私は何のために書いているのだろうか?

自分のために書いている。

あらゆる考えを削ぎ落としたら、それしかなかった。結局、わがままで、傲慢なのだ。

もうひとつ、問が浮かぶ。

自分のための文章なのに、公にするのはなぜ?

露出狂なのだろうか、ナルシシズムなのだろうか、マゾヒスティックにもほどがある。

何かを伝えたり表現するならば、映像や写真の方がずっと有効だろう。テキストファイルの軽さを見るたびに、文字の限界を感じる。記号の羅列に込められる情報量なんて、ごくわずか。あまりに無力だ。

では、なぜ拘るのだろうか?

逆説的に言えば、文字は人の想像力を刺激する抽象的で不完全なもの。読む人に委ねられる余地があまりに大きい。

その客観性が欲しい。

「読まれる」ことで、靄がかった業のようなものを手放してしまいたいのだ。

だからこそ私は「読まれる」ために心血を注ぐ。論理を整え、言葉を選び、神経質に工夫をほどこす。

グラスの結露、電燈が鳴る音、薄いアイスコーヒー、午前4時に来るLINE。カシャカシャと音を立てて記録したすべてをかき集め、F値を調整するように組み立てる。

使えるものは全部使う。卑しいと言われれば、それまでだ。

でも、思考が文字という秩序をあてがわれ、客観性を帯びる時、はじめて安寧を得る。

試行錯誤する途中、例えば誰かの一言で、ふいに読んだ書籍で、聴いた音楽で、当初抱いていたものとは、全く別の答えを導き出せることがある。

その瞬間が何よりも楽しい。本質を掴めたようで、かろうじて社会に接続していると実感する。

だから私はとてもつらいとき、文字を書く。書くという行為に集中している時、すべてを忘れられる。

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