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「モテそう」どまりの自分。決定的に足りない何か

生活に空白があるのが怖い。だから、いつも予定をいっぱい入れて空白を埋めてきた。飲みに誘われると安心してしまうのは、カレンダーがひとつ埋まるからだろう。

でも、リモートワークが始まってから家を出る機会は激減した。下手をしたら、一言も発していない日もある。

コロナウイルスは思った以上に生活を大きく変えてしまった。最初はニュースを見てもピンと来なかったけど、有名人の訃報を聞いたときは、さすがに怖くなった。とはいえ、人類ってこれまでも疫病を克服してきたから、数か月も経てば特効薬が作られて、「あのとき、ヤバかったよね」って言いながら、また居酒屋でビール片手に笑う日々が戻ってくるんだと思ってた。

それから1年、人類はこのウイルスを克服したわけでもないのに、日常が戻り始めている。

幸い、自分は生きているし、親は2回目のワクチンを打ったらしい。インスタを見ると、普通に遊んでるヤツもいるし、自分だって友だちと飯を食いに行く日もある。毎日じゃないけど、出社もできるようになったしね。日常が戻りつつあるのはいいことなんだけど、なんだろう。この感じ。

ウイルスとは別に、じわじわと何かに侵されていく……いや、メッキがはがれていく感じがするんだ。これまでごまかしてきた何かの。

***

「内見行ってきたけど、やっぱ結婚するなら2LDKは必要だよね?」

この前、飯を食いに行った女友達・サトウのツイートに「お、おう……」とたじろいた。確かに「私、結婚するかも」みたいなことを口走っていたけど、本気にしていない自分がいた。サトウの恋人は「コロナ禍で無性に結婚したいと思って始めたマッチングアプリで出会った」という、脆そうな関係性だったから。

「本当に結婚すんの?」。思わずLINEを送っていた。すぐに既読マークが付き「そうそう、この前親に挨拶してきた!」と、まるで「今日、ガリガリ君食べたんだよね!」みたいなノリの返信が来る。

カラッとした解答はますます自分を困惑させた。自分と彼女は出会ってから少なく見積もって8年はある。なんだかんだLINEなりTwitterなり、2日に1回ぐらいの頻度で連絡をとってきたし、何度一緒に飯を食ったのかわからない。サトウは普段こそ明るく振るまっているが、浮き沈みの激しい性格で、自分は落ち込みがちな彼女の素顔を知っていると思っていた。サトウの悩みを聞きながら夜を明かしたこともあったし、サシで飲みに行くこともあったから。

この数年の積み重ねは、たった数か月で追い越されてしまうものなのか? てか、それっぽい男がいるの、もっと前に言ってくれてもよかったんじゃない?

顎を右手で覆うと、2日放置したヒゲが柔らかい指先に刺さる。そのまま、中古のアーロンチェアに体重を預け、体をのけぞりながら自分の部屋を逆さまに見渡した。

ダクトレールに吊り下げられたスポットライトが煌々と照らす広めの1K。学生の頃とは違い、断捨離も上手くなった一人暮らしの部屋は整っているほうだと思う。カリモクのソファを買ったときは、いつ誰が来ても胸をはれるような気になったものだ。

社会に出てから年数を重ねて手にした、ゆとりある暮らしは気に入っている。

ちょっとこだわったコーヒー豆だって常備しているし、最寄りのローソンはクラフトビールまで揃えていて、家飲みだって楽しめる。でも、結局コロナ禍もあって、この家に誰かを呼んだことはない。もうすぐ2年、契約更新の時期が迫る。東京脱出した友だちは、郊外のリノベ物件で広々した暮らしを始めていた。

体を起こし、無料会員のまま放置していたマッチングアプリを開いた。課金するかぁ……と考える。

1か月の利用料金は4000円弱。ネット上の無料コンテンツに慣れきってしまった金銭感覚からすると気が引けたが、安居酒屋での飲み会1回分と考えれば充分にペイできる。半ば勢いで課金ボタンを押す。こういうのは、ノリが大事だ。そうでもしないと、ダラダラと溶けていく毎日が終わらない気がした。

***

マッチングアプリは、単に年収の高いイケメンだけがいい思いをするサービスではない。そこにはメソッドがある。

プロフィールは個人情報を羅列すればいいわけではなく、多くのいいねを稼げるような模範解答がある。自撮りよりも他撮りとか、入るコミュニティーは「映画が好き」とか「キャンプ大好き」みたいな感じで、会話が成り立ちそうなものに入るべき、とか。そうでもしないと、掃いて捨てるほどいるユーザーの中で選んでもらえない。

すぐに女の子に会えるわけでもなく、少しでもキモいと思われたらすぐにマッチを解除される。一見、厳しい世界だけど、馴れ馴れしすぎず「休日何してるんですか」みたいな話から切り込めば、アポは取りやすい。言うまでもなく、写真は加工しているのが前提だから、実際に会ってみると「あれ、全然違くね?」みたいな差異が生じたりもする。

待ち合わせ場所にやってきた女の子は、一瞬で「当たりだ」と思った。

プロフィールに書いてあった通り、身長は155センチぐらいで、aikoが好きそうだ。ボブぐらいの茶色い髪の毛は枝毛なんてなかったし、ロングスカートに合わせるエアフォースワンも似合う。恋人になるのか、セフレになるのか、結婚相手になるのかわからない。きっと空白を埋めてくれるだろう。そう思って歩みを進めた。

でも、現実はそう上手くいかない。

正直、彼女と会う前から嫌な予感がしていた。メッセージでやりとりしていても「何食べたい?」「なんでもいいな」「どんな映画が見たい?」「あなたが見たいものでいいよ」みたいな感じで、会話に歯ごたえがない。

結局、友だちの間で話題になっていた映画を見て、ブルーボトルでちょっと話して、前から行きたかった小洒落た居酒屋に行った。こういうテンプレ的なデートで恐縮だけれど、それなりに場数を積んできた過去の自分を褒めてやりたい。

でも、彼女との時間はなんだか居心地が悪くて、終始気を遣った。帰り途中に「今日はありがとうございましたー! またご飯行きましょー」とLINEを送ってみたものの、このままフェードアウトされるだろう。

こういうのが嫌なんだよ。「なんでもいい」と言うくせに、実は答えがあって、そのストライクゾーンに入ってないとあからさまに態度に出る。あ、ブルーボトルに行ったときはインスタのストーリーにあげてたみたいだった。女の子っぽいな〜と思いながら横目で見ていた。ブルーボトルは正解だったんだと思う。

思えば、会話も微妙だった。彼女が「映画とか音楽に詳しいんですね」と言ってくるから「仕事的に知っておかないといけないから」「トレンドは一通り、押さえておきたいし」とか「学生時代、単館系の映画見るのにハマってって」みたいな返しはするものの、何も広がらない。「逆に、映画好きなんですか?」「好きな音楽は?」「最近見た映画は?」「Netflixで何見た?」と必死に質問を重ねても、何も進展しない。

ちなみに、彼女がaiko以外で好きな音楽はRADWIMPSらしい。どうリアクションするのが正解なのか考えていると、自分が一生懸命に話題を提供していることに気がついて、興ざめしてしまった。結局、彼女がどんな人なのかよくわからないまま、時間だけが過ぎていった。

高い料金を払ってマッチしてるのに、なんでこちらが一生懸命プランを立てて、会話までお膳立てしなくちゃいけないんだ。

できるかぎりの悪態をつきながら、家に帰ってマットレスに飛び込んだ。枕に顔をうずめたあと、ため息をついてから、再び画面いっぱいに並ぶ女の子の画像をスクロールしながら別のアポを考え始める。

空白を埋めたい。独りになると、自分は誰にも必要とされていないんじゃないかっていう不安が頭を支配して鬱まっしぐらになるから。コロナ禍を通して激増した独りの時間は、確実に自分を蝕んでいるんだと思う。

そういうときにマッチングアプリは便利でもあった。実際に始めてわかったのは、出会いがないっていうのは、言い訳なのかもしれないってことだ。

自分の目に見えていなかっただけで、世の中にはこんなにも多くの女の子がいる。次々に提案される女の子の写真を見ては「アリかナシか」を瞬時に判断していくと「選び放題だな」という錯覚すら起こす。

とはいえ、ずっとマッチングアプリをやっていると、摩耗する。俺が他の女の子とデートをしているように、女の子たちもまた別の男と会っているのが、暗黙の了解としてあるのだから。

気晴らしにTwitterを開いて眺める。今日も誰かが炎上して、アイドルが【ご報告】をし、大学の同期が退職報告していた。

10年前は流れの速いタイムラインに驚いたし、興奮すら覚えたのが懐かしい。あの頃は、震災直後で一気にTwitterユーザーが増えて、いよいよネットで社会が変わるとかなんとか言われていた。牧歌的だったと思う。世の中で変わった部分もあるけれど、常に揚げ足を取られてしまいそうになって、少し窮屈だ。火種がどこにあるのかよくわからないのは、多様性が重んじられるようになったからなのかもしれない。着火ポイントは人それぞれだ。

社会だけじゃない。周りが次のステップに歩みを進めているのを見かけるようになった。イベントの登壇、本の出版、結婚、出産、移住に家の購入……自分はこの10年で何が変わったんだろう。学生からうだつの上がらない中年になり始めたことぐらいしかわならない。

どこで差がついてしまったんだろう。何を失敗してきたんだろう。

あることないことを考えていると、「毒舌OL」という人気アカウントのツイートが流れてきた。フォローしているわけではないけれど、OLの日常を辛辣に書き綴っているのが人気で、定期的にバズっているアカウントだ。多分、友だちの誰かがリツイートでもしたんだろう。

毒舌OLチャン @dokuzetsu_OL_chan 2時間前
マッチングアプリで知り合った男が、自分の話しかしないヤツのときは基本的に「ウンウン」としか言わないようにしているんだけど、この前出会ったつまらない男は、こちらが話をしようとすると「女の子はこうだよね」みたいな相槌しかうってこなくて本当にガン萎えした。

一瞬で毛穴がブワッと開き、嫌な汗が湧いてくるのがわかった。心臓を掴まれたかのようで、息がうまくできない。

もしかして、さっき会った女の子は毒舌OLの中の人だった……? 見てはいけないとわかっているのに、毒舌OLのツイートから目が離せない。

毒舌OLチャン @dokuzetsu_OL_chan 2時間前
だいたいこっちは、メイクとか洋服とか身支度で時間やコストを掛かけてるのに、なんでお前の話を聞かされなきゃいけないの。映画見に行ったんだけど、そのセレクトも流行をとりあえずおさえました〜って感じで本気でつまらなかった。感想も浅すぎて、多分私は顔がひきつってたと思う。
毒舌OLチャン @dokuzetsu_OL_chan 2時間前
自分の話しかしないクセに、終始薄っぺらい。ああいう人、絶対結婚できないよ。
毒舌OLチャン @dokuzetsu_OL_chan 2時間前
初対面で「どんな音楽聴くの」って聞いてくるヤツってクソなんだよね〜。微妙だったら「ふーん」って言うんでしょ。人の好みを査定してんじゃねぇよ。昔バンドやってたって言ってたけど、絶対モテたかったからやってるだけだよね。「モテたい」がモチベーションで許されるのって向井秀徳だけだから。
毒舌OLチャン @dokuzetsu_OL_chan 2時間前
マッチングアプリやってても、フワッとしたヤツってまじでイライラするんだよね〜。ヤリモクのほうが、かえって気楽だわ。

急いで毒舌OLのツイートを遡る。あの子とマッチしたのは何月何日だっけ。この男が自分ではないという確証が欲しかった。でも、有名ツイッターアカウントは、個人が特定できるような話なんてしない。毒舌OLは2日前にクロワッサン専門店に行ったと写真付きのツイートをし、3日前にはヘアケアの新商品を紹介していた。

わかっていたけど、見つからない。自分がつまらないヤツだって否定できる確証が。

逃げるようにInstagramを開いてストーリーを眺めることにした。ほのぼのした家族との光景をあげてる大学の同期、家に届いたばかりの観葉植物を愛でる前職の後輩。誰かの幸せな暮らしを眺める時間は微笑ましくなる一方、虚しくもなる。こんなこと、人には言えないけど。

***

翌日は出社日だというのに、心が落ち着くかどうかもわからないまま、寝落ちして朝を迎えた。

コロナ前には混雑していたエレベーターホールは、がらりと空いていた。昔は、各階に停止するたび「出社時間に間に合うか」と不安になっていたけれど、その心配をすることは当分なさそうだ。人がまばらにしかいないオフィスは妙に静かで、家で仕事をするより緊張感がある。プライベートがうまくいっていないなら、仕事で埋めればいい。その気で会社に来たんだ。

無心で会議の資料を作り終え、3階下のフロアにある喫煙所に向かった。そういえば、ここの喫煙所ももうすぐ撤去されるんだっけ。周りも、学生の時はみんな吸ってたのに、いつのまにか禁煙を成功させたヤツばかりになっていた。かくいう自分も、電子タバコに移行したクチではあるものの、どうしてもやめられない。

死にてえな……。

今の気持ちを表すと「死にたい」に尽きる。仕事もあるし、病におかされているいるわけでもなく、贅沢な希死念慮だと思う。本気で自殺したいわけじゃない。でも、仕事にやりがいも感じられないし、このままいくと天涯孤独だし、じりじり首を絞められていくような感覚だけがあって、消えたくなる。その上、サトウの結婚にマッチングアプリと毒舌OLのトリプルコンボ。「やるせない」が適切なんだろうけど、「死にたい」がしっくりきてしまう。

「暗っ」

突然声がして驚いた。おそるおそる黒目を移動させると、暗い喫煙所の端っこに、同じ部署のヤマグチさんがいた。失笑しながら「大丈夫?」と言っている。やばい。頭の中で思っていたことを口に発していたっぽい。

前髪が長めのショートヘアが彼女のすっきりとした輪郭を際立たせる。「今日、出社日だったっけ」と言われたが、思わず「ヤマグチさんってタバコ吸う人でしたっけ…」と聞き返してしまった。ヤマグチさんは「あー……」と言いながら、一息吐いて話す。

「昔吸ってたんだよね。最近また吸い始めちゃった。でも、ほら、アイコス」と、免罪符のように話す。電子タバコ特有の、焼き芋が焼けるような匂いがフワッと香る。

ヤマグチさんは2歳年上の先輩で、映画のプロモーションを担当している。彼女は、夫が待ってるとかなんとかで飲み会は1次会で帰るし、昼飯も一緒に食べるわけではないからプライベートのことはよく知らない。前職はネット広告の代理店に勤めてたような気がする。

「会うの久しぶりじゃん、最近どう?」
「どうって……別に何もないっすね」
「何もなかったら『死にてぇな』って言わなくない?」

細い手首に華奢なブレスレットが光るが、いつもと何かが違かった。久しぶりに会ったからそう感じるだけなのかもしれない。

ほどよい距離感がある異性の先輩。この人なら、今の自分に何が足りないのか、どうすればいいのか教えてくれそうだ。我ながらゲンキンだと思うけど、心配してもらってるんだから、ちょっとぐらい相談に乗ってもらっても良いだろう。

「最近、すげー仲がよかった女友達が結婚するって言い始めたんですよ」
「へえ」
「しかも、マッチングアプリで出会ったらしくて、だから自分もやってみたんですけど、あんまりうまくいかないっていうか。多分、向いてないんですよ」
「何に?」
「マッチングアプリに。合理的で合コンよりもいいなーって思うんですけど摩耗するっていうか」

ヤマグチさんは「うんうん」とうなずいた後、「……その女友達のこと好きだったの?」と聞いてきた。

マッチングアプリの話ではなく、サトウの話に食いつくとは思わなかった。唐突なヤマグチさんからの質問をトリガーにサトウとの記憶を遡る。サトウの一番近くにいると思っていたし、一緒にいて居心地がよかったし、ちょっとメンタルに波のある彼女を自分なら支えられるし……。

サトウが酒を片手に話していた姿が頭に浮かんだ。

「安心できる人と刺激的な人だったら、後者をとっちゃう」

この言葉の真意を聞こうと思ったけど、聞けずじまいだった。自分に足りない何か。サトウはそれを見抜いていたんだろうか。

ヤマグチさんが聞いてくる。

「失礼かもしれないけど、その女友達のこと……好きだったんじゃなくて、イケるかもって思ってたんじゃない?」
「イケるかもって」
突然、差し出された単語に苦笑いしていた。
「あ、ヤれるかもじゃなくてね。なんだろう……メンヘラホイホイだったでしょ」
「自分が、ですか?」
「そうそう」
「学生のときは、そうでしたね。付き合う女の子がだいたいメンヘラだった気が……最近は恋愛すらしてないですけど」
「あー……やっぱり」
ヤマグチさんは少し笑ってから、壁を見ながら続ける。

「メンヘラホイホイの人ってさ……自分が空っぽなんだよね」

え?

「自分が空っぽ」

条件反射的にそれを否定する自分がいた。だって自分はこだわりが強いほうだ。住んでいる家だって、じっくり揃えた家具だって、聴いてる音楽だって、これまで見てきた映画だって。全部、自分で選びぬいてきた。もちろん、仕事だってそうで、じゃなきゃ転職なんてせずに終身雇用に甘えてきたはずだ。

「きみのやりたいことって何?」

これもサトウと飲んでいるときに言われた言葉だ。あの時はふてくされて口論になった。今思えば、やりたいことが答えられない自分を見透かされていたようで、怒りで焦りをごまかしたんだと思う。ヤマグチさんとはサトウと違う話をしているはずなのに、行き着く先は同じだ。

「メンヘラホイホイの人って、メンヘラの人に振り回されていることで自分を確かめている感じがするんだよね。月って太陽がないと見えないじゃん。それと同じ」
「文学的っすね……」
ツッコミをいれると「だよねー、私もそう思った」とヤマグチさんも笑う。

「私さ、離婚したんだよね」

突然重大発表をかまされて頭が全然追いつかない。左手に視線をやると、さっき感じた違和感の正体がわかった。指輪が消えていたのだ。

「いつしたんですか」
「んー……半年ぐらい前かな」
「コロナ離婚ってやつです?」
「あはは! 違う……違うと思う。時期はコロナ禍だけど、ずっと考えてたことだったから」

ヤマグチさんと会ってからまだ5分も経っていないのに、どぎつい会話が続いている。喫煙室ってこんな深刻な話をする場所だっけ。いつも男子校ノリのくだらない話しかしてこなかったからリアクションに困る。おそるおそる「なんで離婚したんですか」と切り込んだ。

「なんで結婚してるのか、わからなくなったから……?」

ヤマグチさんは質問に回答するというよりも、自分でその答えを確かめているように語尾をクイッとあげてつぶやいた。はぐらかされたような気もするけれど、深掘りはできそうになかった。

「離婚の理由はどうでもよくて。親に怒られたし、手続きが本当にダルかったんだけど……通帳とかクレカが自分の名前に戻るたびに、安心感があってさ。1人になって、今、毎日が楽しいんだよね」

離婚した人から「楽しい」とか「安心」という言葉が飛び出してくるのはちょっと意外だ。確かにヤマグチさんから悲壮感は漂ってない。むしろリラックスしているように見える。

「1人になって久しぶりにタバコ吸ったら、まぁ美味しくて。長いこと呼吸してなかったんだ〜って思った」
「禁煙してたんです?」
「別に禁煙ってわけじゃないけど、夫はタバコ吸わない人だったから、自然と」
「きついっすね」
「自分では全然気が付いてなかったんだけど、他人と暮らすってそういうことじゃん。あと、タバコが吸いにくい社会になってるし」
「なるほど」

ヤマグチさんとこんなに話すのは初めてで、うまい相槌が打てない。どうしてこんな身の上話をしてくれるのだろう。

「1人の時間が必要だったんだよ、私は」
「ひとり……ですか」
「きみは、ちゃんと1人になってる?」
「ずっと独りですよ」

鼻で笑ってしまった。自分は恋人すらいないし、この1年はほとんど人に会わなくなって、孤独で仕方がなくて、精神状態がじりじり悪くなっていってるのに。ちゃんと1人になってるか、なんて。

「喧騒の中で、独りなんじゃない?」

は?

戸惑っていると、ヤマグチさんは続ける。

「私はこれまで、ずっと自分1人で物事を決めて納得してきたと思ってたんだけど、そうじゃなかったなぁって」
「どういうことですか」
「なんか……20代後半で付き合ってるなら結婚したほうがいいかなとか、稼ぎがあるなら都心に住みたいよねとか、体に悪いからタバコは吸わないほうがいいよねとか、ユニクロがコラボした途端、突然マメクロゴウチを着ちゃうとか」
「最後、悪意ありすぎですよ」
思わず笑ってしまう。
「私がそうだったからね、自虐」。ヤマグチさんも笑う。
「自分じゃない誰かの価値観に流されてたっていうか。1人で決めてるようで、1人で決めてなかったんだよ、私」
「あー……」

相槌を打ちながら、自分の暮らしぶりと照らし合わせる。渋谷まで10分で着く広めの1Kは、好きなものだけ集めてきた。多分。

「転職もしたし、結婚しても働いてるし、昭和的な世間体とは違う、新しい価値観の中で自立してるなーって思ってたんだけど、結局SNSとかで映えるような新しい正解を追ってただけだったんだと思う」
「それで離婚したんですか」
「いや……これは離婚してみて気が付いたこと」
「なるほど」
「コロナ禍でさ、これまでの正解みたいなものがまた揺らいでる感じがしてね。働きながら移住する友だちとかさ、事実婚する子とかさ、何その選択⁉︎ かっこよーって思って。そろそろまた新しい喧騒が始まりそうじゃん。ダラダラしてると、また流されていっちゃいそうで」
「あー……」
「選択肢が多すぎて、何が正解なのかわからなくなっちゃってさぁ。これまで自分が選んできたものって、なんだったんだろう」

何も言い返せない。

「ありのままの自分でいたいと思うけど、ありのままの自分がなかった」

空気を吐き出す音だけが響いた。

美人で仕事ができて、結婚までして。すべてを持っていそうな彼女は、それを手放した。結婚したらすべてが認められて、ハッピーエンド的な人生が待っていそうなのに、そうでもないのか。

「ヤマグチさん、めっちゃ悟ってますね」。自分より少し背の低いヤマグチさんを見ながら言うと、すぐに否定された。
「いや、受け売りだよ。離婚した時、友だちがYouTubeのリンク送ってくれて、聴いてみたら、今の自分にめちゃくちゃ響いちゃって」
「へぇ、どんな曲ですか」
「あとでリンク送っとくよ」
「ありがとうございます」
「……きみを見ていると、私と同じで、選択の根幹に、世間の正解を求めている感じがしたんだよね。俗っぽく言うと、”モテたい”とか”ウケそう”とか。究極、それが目的になってて、だからこう……何やってもしっくりこないんじゃないかな」

自分が空っぽ。

認めたくない事実が、突きつけられる。サトウが結婚すると言って焦ったのは、自分を必要としてくれていると思っていた存在が、どこか遠くへ行ってしまう気がしたから。マッチングアプリでうまくいかなかったのは、自分の意志すらわからないハリボテ具合を見抜かれていたからなのだろう。

安心できる人と刺激的な人。「モテそう」どまりの自分。転職しても天職に巡りあえてないキャリア。歯ごたえのない出会い。

埋めたかったのは、生活の空白ではなくて、自分だったのだ。

「1人になってみるといいよ。誰かの意見とか視線とか、今っぽさとか関係なく、自分は何をしたいのか考えられるから」
「デジタルデトックスですか?」
「いやいや、単純に自分が何やりたいのか考えるってこと。私なんてさ、最近ピアノ買っちゃった」
「ピアノですか」
「そうそう、昔やってたんだけど、他人と比べて才能ないなーって思ってやめちゃって。でも、1人になって無性にピアノ弾きたくなって」
「置く場所あるのすごいですね」
「超手狭だよ」と言い、また笑う。離婚した人とは思えない明るさだ。

つられて笑っていると、「やば、もう行かないと」と言って、ヤマグチさんは軽やかな足取りで喫煙所を去っていった。多分、あの人はこれから1人で生きていっても、誰かと結婚しても、自分なりの幸せを掴んでいける。33歳のバツイチ独身女性が、めちゃくちゃ自由に見えた。

夕時の電車は、隣の人と肩が触れ合うくらいの混雑具合だった。街から誰もいなくなった1年前とは全然違う風景だ。電車に揺られていると、ポケットに入れたiPhoneが震えた。ヤマグチさんからだ。

「今日はごめんねー! つい自分語りしてしまった。さっき言ってたYouTubeこれ! 響くと思うよ〜!」

メッセージの下に載せられたYouTubeのリンクを踏むと、イヤフォンから音が鳴る。

電車の車窓を眺める。外が暗くなると、窓には都会のネオンの中に車内の様子がうっすらと浮かぶように見える。隣のつり革に身を預けている中年男性も、その隣のOLも、ドアにもたれかかっている高校生もみんなスマホを見ている。見つめている画面の先には、一体誰がいるのだろう。

「喧騒の中で、独りなんじゃない?」

ヤマグチさんの言葉が頭に浮かんだ。

心地よく生きたい。ありのままでいたい。

でも結局、自分も画面の向こう側にいる誰かの視線を気にして生きてきた。いつも「正しい」側にいたかった。何をもって、正しいとか間違ってるかなんてわからないのに。

俺は自分の人生に、ちゃんと納得していなかったんだ。

最寄りの代々木八幡駅に着く。駅前のローソンに入ると、まっすぐレジに向かってハイライトを買った。10年以上前、最初は大人になりたくてタバコを吸った。ニコチンの量も重いほうがかっこいいと思ってたから、17ミリの数字に酔いしれていた。大人になった今、意味もなく猛烈にそれが吸いたい。

家に帰るなりベランダへ出て、口にタバコを咥えながら火を付ける。何年ぶりだろう。紙タバコの先が赤く輝くのを見るのは。葉が燃える音がジジジ……と聞こえる。依存症だとか、健康に悪いだとかそんなことは関係ない。今、自分がしたいのはタバコを吸うことなのだ。

初めて1人で映画館に行ったのはいつだっただろう。何を見たっけ。

街頭が道路を照らし、住宅街が広がる遥か彼方に高層ビル群が見える。都心と言えども、20時以降はずいぶん静かになった。夜風が頬に触れる。大きく息を吐くと、煙が夜の闇に消えていった。

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この文章は、小西遼くん主宰のリモートコラボ音楽制作プロジェクト「TELE- PLAY」による楽曲『prism』をもとに作ったものだ。小西くんのほか、原田郁子さん、ROTH BART BARON(バンドのため敬称略)、Seihoさんという豪華なメンツで奏でられる。

2010年代を20代として過ごして、なんとなく生き方みたいなものがわかってきたはずだと思ってた。ネットを使って誰かと出会い、仕事を見つけ、それ以前の世界とは違う生き方を謳歌してる気がしていた。

緊急事態宣言があり、ほとんど人に会わなくなった日々は「誰かに会いたい」と思ったものだけど、アフターコロナの足音を聞くと、もう戻らない過去の生き方が通用しない気もして、朧げな不安が芽生える。その正体はなんなのだろう。どうすれば晴れるんだろうと考えていたときに、小西くんから「ちょっと聴いてみてよ」とYouTubeのリンクが送られてきた。

この1年、気まぐれに「アラサー、恋人ができない、わからない」と「20代と30代って、仕事も恋愛も全然違うんだよ」という文章を書いてきたけれど、そのオチをどうしようかなと思っていたら、この曲とコンセプトがピタリとハマった。

多くの意見と考え方が認められていくほどに、自分が揺らいでいく。孤独だと感じる瞬間はあれど、こんなにも1人になることが困難になった時代はないんじゃないだろうか。

マスクが完全にとれるまでにはもう少し時間がかかりそうだけれど、新たな日常がやってくる前に、きちんと1人の時間を愛でておきたい。

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