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蟻を殺した感触

小学1年生の頃だったと思う。ランドセルを背負って通学路を歩く昼下がり、目の端に違和感を覚えた。

好奇心と不安に駆られて近づいてみると、鳥の雛の死骸とそれに群がる蟻の集団があった。

雛を見た瞬間、すでにそれは肉の塊になっているとわかった。毛もまばらな赤い肉。そして黒い小さな点がハイエナのようにたかっていた。

よく晴れた日だった。緑が風で揺れ、日差しがコンクリートの地面を照らしていた。平和な空間で、命の消失と食欲とが混ざったそれは不気味だった。

「なんて酷いことをするんだろう」と瞬間的に感情が沸き立った。気持ち悪くて、許せなかった。

弱き者は助けなくてはいけない。7歳児の頭にもしっかりインストールされている倫理観だった。家や学校でも、そう教えられてきたから。

次の瞬間、私は無心に蟻を踏み殺し始めた。

コンクリートの地面に勢いよく足を落とす。それまで規則的に動いていた蟻の集団が慌てふためき、隊列を乱す。蟻は不恰好に潰れて、壊れていった。

背中に太陽の熱を感じながら、容赦なく蟻を殺していく。

少しずつ動かなくなっていく蟻を見ていると、悪者を倒しているかのような感覚がした。雛の周りに集まっていた黒い点は、ついさっきまで列をなしていたとは思えないほど、すべてが小さくなって、もう動かなかった。

奇妙な感覚に襲われた。

私が蟻を成敗したところで、雛の命は戻らない。死骸の周りに死骸が溢れるだけ。何の意味もない。

蟻は幸運にも目の前に落ちてきた肉を食らうだけ。自然の摂理だ。

冷静に考えればわかる。それでも私は「成敗しなければ」と衝動的に思った。蟻を踏み殺している最中、快楽すら覚えた。正しいことをしている陶酔があったのだろう。

同時に邪悪さも感じていた。どうやって壊れていくのか見たかった。潰れて、手足がクシャクシャになって、動かなくなる。それを見たかった。

加えて自分の優位性を実感していた。私が踏みつければ蟻は死ぬ。蟻はそれを拒否できない。生殺与奪を握っている感覚があった。親や姉からは幼児扱いされる自分は弱くて力がない。でも、私は蟻を目の前にして強者になれた。

正義感の裏には、こんな自分勝手な欲望が潜んでいたのだ。

そういえば、蟻を踏み殺すとき、悪いことをしていると認識しつつも、罪悪感が芽生えたことはなかった。

命を奪っているのに、なぜだろう?

きっと、小さな生命が潰れて途絶えるとき、手応えを感じないからだ。蟻は言葉を発しないし、叫ぶこともない。痛みを訴えかけてこない。

私はゴム製の靴底で踏み殺した。何かプチっという感触があるわけでもなく、一歩踏み出す時と同じ感覚で蟻を壊していった。

一度でも蟻に噛まれるべきだった。そうすれば、生命があることを感じたはずだ。でも、自分が傷つくのを避けたかった私は、頑丈な靴を履いて蟻を殺していた。

20年以上も前の話だ。もう、不用意に蟻を殺したりはしない。

ふと、iPhoneを手に取りTwitterを開く。トレンドにあがる不自然な単語をタップすると、「炎上案件」だとわかった。批判や叱責、冷笑から擁護まで、さまざまな意見が勢いよく飛び交っていた。

いろんな言葉が錯綜する中、人混みをかき分けるかのように、経緯をまとめた記事を読んで「これは炎上するよね…」と納得した。何かひとこと言いたいと思いつつ、「この後、どうなるんだろう?」と疑問が湧く。

謝罪するのかな…と考えに至ったときに、ゾッとした。

私は人が謝罪する様を想像したのだ。それは蟻がどうやって死んでいくのか見たい気持ちに似ていた。

炎上を目にした時、各々異なる感情が湧く。怒り、悲しみ、好奇心、同情……。当事者だったり、関係者だったり、過去のトラウマを思い出す人もいるだろう。どの立場にいるかで、感じ方も異なるし、然るべき措置をとる場合だってある。

でも、自分とは離れたところで起きている炎上を見て「ひとこと言いたくなる」「この後どうなるんだろう」と思った私の感覚は、懐かしい邪悪さを思い出させた。

すべてが流動的で多義的。何が正しいのかわからない。それでも、どうにか人を傷つけないようにしたいと願って生きているつもりだった。

しかし、蟻を殺した邪悪さは、自分の中に今もなお存在していたのだ。あまりにも自然に。

Edit:Haruka Tsuboi

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