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魔都に烟る外伝/還(めぐる)~The 2nd part 終幕~

 
 
 
 脳が倭(やまと)の言葉を反芻する一瞬の間。その真意を理解し、洋紅色の瞳が拡大する。

「……同時に、レイにそのようなものを背負わせるなど、ありえませぬ。かと言って、今さらご内儀と御子の魂を見放すなど、到底、致しかねまする」

「……倭……」

 理解はしても言葉は浮かばなかった。浮かんだとしても、それは決して口から洩らしてはならないものであり、むしろ浮かばなくて良かったとすら思える。これ以上をレイに課すことも、マーガレットとガブリエルを見放すことも、クライヴにも出来ない──それは確かなことだったからである。

 彼の表情から、そんな心持ちを読み取ったのか、倭がひと言添えた。

「……それに……」

 何と言おうか迷うように、一瞬だけ睫毛を翳らせ、もう一度視線を交える。

「もし、レイが私の子ではなかったとしても……」

 自分を押さえ込んでいるクライヴの腕に、そっと自らの手を添えた。

「あの子は、貴方ではありませんから……」

 それは、倭にとってのクライヴの存在意義を、最大限に認める言葉。

『血を分けた我が子でなくとも、貴方以外の男と交わるつもりはない』と。

 だが、同時にクライヴの望みも退路も断ったことになる。

『この身以外、この命以外、かけるものはない』と。

 禁忌に禁忌を重ねて生を得た倭に、クライヴにはそれ以上を犯せ、とは言えなかった。まして、レイにさらなる枷を付けるなど出来るはずもない。

「私は約束通り、この身が朽ちても、私の持ち得る全てを貴方に……貴方だけに差し上げます」

 瞬きも忘れて倭を凝視していた顔が、耐え切れない苦痛を帯びたように歪んだ。その表情を目の当たりにした倭の中に、かつて感じたことがないほどの痛みと疼きが生じ、それらが容赦なく胸を締めつける。

「……クライヴ……」

 怜悧さの中に魂を含む、その声、その表情。

 初めて倭を抱いた夜に生じた不安と恐れが、知らぬ間に現実となっていたことに今さら気づき、クライヴは破裂しそうな心と身体を無理やり抑えつけた。

「……………………!」

 声にならない叫びをあげる。

 崩れるように黒絹の髪に顔を埋めると、倭の帯を解き、引き抜いた。

 この夜を限りに、クライヴは件の一切を封印し、これより後、二度と口にすることはなかった。

 数年が経ち、相変わらずクライヴは母国との間を行き来していた。倭の作り出す『代わり身』のお陰で回数は減っていたものの、時に戻らねばならないこともある。

 そんな日々の中で、いつしか三人共に感じていた。

 別れの時が間近に迫っていることを。

 クライヴが渡航している間の倭は、教えたことをレイが本当に正確に覚えているのか確認していた。因果な世界に生きる者にとって、これは命に関わることであり、念には念を重ね、幾度となく確認することを怠る訳にはいかないのである。

 近々、クライヴが戻ろうかと言うその日も、いつもなら復習を終えて昼餉となるところ、静かにレイに語りかけた。

 天候に恵まれ、予定より早く帰港したクライヴが、屋敷に到着したのはちょうどその頃である。

 先触れを出すことなく戻ったため、クライヴの到着を知らずにいる二人の元へ向かう途中、ある部屋の前で足が止まった。

(……教義中か……?)

 多目的に使っている、いわゆる教場的な部屋に近づいたクライヴの耳に、開かれた戸の奥から倭の声が聞こえて来る。

「レイ……今日は、そなたに話しておきたいことがある。この話は、これを限りに一度しかせぬ。母の願いと思うて聞いて欲しい」

「はい、母上」

 教義とは少し違う様子に、クライヴは気配を悟られぬよう耳を澄ませた。聞こえて来た『母の願い』と言う言葉が、彼の関心を引くと同時に不安を誘う。

 そっと中を窺うと、母の様子に何かを感じ取ったのか、レイはいつになく真剣な表情で背を正していた。

「そなたは、もうじき父上の国に渡ることになる。その時、母が共に征けぬことは、既に話してある通りだ」

「はい」

「想像を絶する大変な目に遭うことになろう」

「はい」

 容赦ない母の言葉。それでも、レイの返事に一切の淀みはなかった。傍から見れば、本当に言われていることを理解しているのか、と思うほどに。

「かの国では、そなたは異国の人間として見られよう。そのせいで、謂われなき扱いを受けることもあるやも知れぬ。けれど、そなたは異国の人間とみられるよりも、さらに奇異の目で見られる可能性の方が高い……父上と、この母の血のせいで……」

「はい」

「……好奇の目に晒される気持ち……それだけは、この母にもわかるが故に……すまない……と……思うておる。……零(れい)……決して、負けてはならぬぞ」

「大丈夫です。母上」

 坦々と言い聞かせる倭と返事をするレイに、クライヴは遣る瀬ない気持ちになった。

 倭の言っていることは、可能性として十分過ぎるほど有り得る。もちろん、父として必ず守るつもりではいても、人の口に戸が立てられない以上、クライヴの預かり知らぬ所で、レイが傷つけられる可能性が皆無とは言い切れなかった。

(……それでも、連れて征かねばならぬのか……)

 レイが産まれるまでは考えもしなかった問題が、次から次へとクライヴを悩ませる。

「父上は必ずそなたを守ってくださる。そなたは必ず父上の願いを全う出来る。母が保証致す。その暁には、全ての柵を捨てて構わぬ。ただひたすら、そなたの好きなように生きて欲しい」

 一度、言葉を切った倭は、一瞬、迷いを見せた。だが、意を決したように続ける。

「始まりの目的が何であれ、その目的がなければ、私はそなたの父上にも、そして、そなたにも逢うことはなかった。この運命(さだめ)だったからこそ、私はそなたと逢えたのだから」

「母上……」

 その言葉に困惑しているのか、レイはただ母を見つめた。その時、倭の放ったひと言に、クライヴの耳は釘付けになる。

「見つけて欲しいのだ、そなたにも……そなたの……そなたにとっての“光”とも言い換えられる何か、を……」

「光とも……言えるもの……?」

 つぶやくレイに、倭は頷いた。

「この母にとっては、そなたの父上です」

 クライヴが思わず息を飲む。

「父上もこの母も、共に陽の当たる生き方と言う訳ではない。けれど父上が、宵の闇の中に差す光のように母の前に現れた時……初めてお逢いした時にわかったのです。この方が指針の光となる人なのだ、と……」

「父上が……」

 間髪入れずにクライヴは動いた。

「そして、レイ……父にとっては、そなたの母が“光”だ……」

 驚いた二人が扉に目を向ける。

「父上!」

「クライヴ……! いつ……!」

 レイが嬉しそうにクライヴの傍に駆け寄った。

「つい先ほど着いたばかりだ」

 レイを抱き上げながら倭に近づく。

「……私も同じだ……」

 倭が洋紅色の瞳を真っ直ぐに見上げた。クライヴに抱かれたレイが、両親の顔を交互に見遣る。

「私の絶望を塗り替えた希望は、そなただ……倭……」

 胸の内に満ちる思いを噛み締め、クライヴは今、言葉として昇華させた。微かに口角を上げ、レイに目を向ける。

「そなたにも必ずいる……見つかる。探すのだ。諦めてはならぬ。それが、母上の……そして、父の願いだ。ゴドー家など存続させるに及ばぬ。そなたの“光”を見つけた暁には、その時こそ“零”の名に魂(たま)を吹き込んでもらえ」

 父の顔を見つめ、レイが頷いた。

「……この力も命も、全てそなたにくれてやる。そなたに課した重荷のことを考えれば安いものだ」

 首を振るレイを片手で抱き上げたまま、クライヴはもう片方の手で倭を抱き寄せた。

 これからしばらく後、継承の日は決まった。レイが11歳を迎える時、と──。

 当日までの最後の三日三晩、クライヴは倭を連れて部屋にこもり、片時も離さなかった。

***

 走馬燈のように駆けて征く記憶たち。

 その巡るものたちに思いを馳せ、クライヴは胸の上にもたれている倭を見つめた。

 あれ以来、口にせず、これからもするつもりがないもの、言っても始まらないもの、とは言え、それでもクライヴの脳裏から離れることはない。常に彼の意識を苛み続ける存在、であることにも変わりはない。

 ゆっくりと身を起こしたクライヴは、片肘で己を支え、片手で倭の頬に触れた。

「……倭……」

「……はい」

 前に呼びかけられてから、もう何刻も無言のまま次の言葉は聞こえて来ない。思いを巡らせ、言葉を探しているのがわかるだけに、倭はじっとその時を待っていた。

「……私は、恐らく……」

 これ以上ないほどに躊躇う気配と間。

「……そなたを愛している……」

 倭が首を傾げる。

「それは……どのような意味なのです?」

 不思議そうに問う倭に、クライヴは自嘲気味な笑みを浮かべた。

「実のところ、私にも良くわからぬ」

 無責任な言葉に、倭が驚きでやや目を丸くする。

「……ただ……」

「……ただ?」

「……敢えて言うのなら、今の、私のこの気持ちが一番近いのだろうと思っただけだ」

「………………?」

 倭の顔がさらに疑問を湛え、クライヴの眉間には切なげにシワが寄った。

「……このままでいたい……そなたを離し難い想い……そなたと離れ難い想い……どこまでも共に征きたかった想い……何より、そなたを誰にも渡したくない想い……それが、例え相手が世の理であっても、だ……」

 頬に触れるクライヴの手に、倭は己の手を重ねた。

「忘れるな、倭。私は遠からず、必ず、そなたの傍にある」

 その意味を確認するように、倭の瞳が拡大する。

「私はそなたを手離さぬ。そして、誰にも渡さぬ」

「クライヴ……」

 名を呼び終えるや否や、倭は再び彼の身体の重みと、言葉も吐息も封じるほどの深い口づけを受け、心と身体の熱に飲み込まれた。

 倭ですら初めて感じるほどのクライヴの熱量。気が遠くなりそうなほど求められ、だが、倭はそれに応えた。彼なりの想いに見合うよう、倭も己をかけて。

 そして、その夜が明ける最後の最後まで、クライヴが倭を離すことはなかった。

 早朝、禊と大刀自への挨拶を済ませ、倭はヒューズと五百里(いおり)にも共に朝餉の席に着くよう求めた。

 やや瞳を翳らせてはいるものの、五百里の根本部分は倭と同じものであるため、それほどの悲壮感は見せていない。そしてヒューズは、その心情を顔に出さない程度には成長していたが、沈んでいることは隠し切れていなかった。

「五百里。そなたには長い間、世話になった。礼を申します。これからも里のこと、そしてレイのこと頼みますぞ」

 五百里の手を握る。

「もったいないお言葉にございます。私の方こそ、倭様にお仕え出来たことは喜びにございます。私の命ある限り、お役目を全う致しまする」

 敬礼する五百里から手を離すと、今度はヒューズに向き直った。一度、真っ直ぐに目を見つめてから丁寧に頭を下げる。

「ヒューズ殿。図らずも長き御縁となり、色々と心を砕いてくださったこと感謝の念に堪えませぬ。この後も、クライヴと……レイのこと、どうかよろしゅうお願い申しまする」

「何を仰せになります」

 ヒューズはふわりと跪き、頭を下げる倭よりさらに低い位置から、最敬礼を以て答えた。倭に頭を下げられたりすれば、以前のヒューズであれば慌ててオタオタするか、込み上げるものを抑え切れずに鼻をグズグズさせるかしていたであろう。

「私の方こそ、お目通り叶ったこと生涯の幸せにございます。拙きことお恥ずかしい限りではございますが、私の持てる力を尽くし、セーレン様にお仕えさせて戴くこと、お約束致します」

「恩に着ます。どうか、フレイザー殿にもよろしゅうお伝えくださいませ」

「畏まりましてございます」

 不意に倭はヒューズの額に触れ、何かを唱えた。

「私からの護符です」

 見上げたヒューズの瞳が驚きに拡大し、すぐに嬉しげな笑みに変わる。

「光栄に存じます」

 そう言ってヒューズは、そっと倭の手を取り、その甲に口づけた。

「では、参る」

 倭が短く告げる。

 時の訪れに、ヒューズと五百里がほんの一瞬息を止め、静かに倭に目礼した。クライヴがレイを抱き上げる。

 遠くの物見台から大刀自が見送っていることを感じながら、倭は軽く地を蹴り、ふわりと浮き上がった。里の者たちも、全員が密かに見送る中、五百里の瞳から最初で最後のひと筋の涙が溢れ落ちる。

 そのまま目指す方角へと宙を駆け、やがて倭とクライヴの姿は見えなくなった。



 倭の視線が、クライヴに抱き寄せられているレイの瞳を捉えた。静かにレイの前に屈み、その頬を包み込む。

「全てを託すこと……すまない」

 レイが小さく首を振った。

 刻み込むように、倭はその頬を、そして髪を撫で、抱きしめた。髪と瞳の色以外は、クライヴの面影を色濃く映すその顔を、手触りも温度も、髪一筋までも記憶に留めるかのように。

「母の言うたこと、決して忘れてくれるな。例え私を恨んだとしても、忘れてはならぬ」

 そう告げると、レイを抱く腕に力をこめた。少年も母のぬくもりを忘れぬよう、その胸に刻み込むように顔を寄せる。

「母上……恨みなど致しません。決して、忘れません」

 睫毛を伏せ、倭は小さく微笑んだ。立ち上がると真っ直ぐにクライヴと視線を交え、頷き合う。

「……倭……」

 引き寄せて抱きしめ、倭がレイにしたように髪に指を通した。その感触を確かめるように、記憶に刻み込み、決して忘れぬように。

 身体を離したクライヴは、倭の頬に触れながら覆い被さるように口づけた。最後になるであろう口づけは、深く深く、静かな埋み火のようでいて、激しく燃え上がる焔のようでもあった。倭の背と腰を抱え上げるようにして、二人の口づけは何度も繰り返される。

「………!………」

 この時、レイの目は、父の背中と手が確かに震えているのを見た。

 レイの前では、二人共に感情を荒げることはなかった。声を出して笑うことも、声を荒げることも、まして泣くところなど見たことのない父──その父の背が泣いている様(さま)を。

 名残りを惜しむように、クライヴがゆっくりと唇を離した。

「忘れるな……私は決してそなたを手離さぬ。遠からず、必ずやそなたの元に参る」

 倭の耳元に囁く。

「私の全ては貴方に差し上げたものです」

 睫毛を翳らせて答える倭に、クライヴはもう一度口づけた。

 長い長い名残りの時。クライヴから離れた倭は、もう一度、レイの顔を覗き込んで抱きしめた。

「すまぬ……零……」

 もう一度、繰り返すと、今度こそ後退るように湖の方へ近づいて征く。何の感情も宿っていないかのような、まるで目の前にある凍った湖面のように静かな瞳で。

 そっとレイを抱き寄せたクライヴの手が、小さく震える。

 やがて、凍った湖面に差し掛かると、倭の唇が微かに動き、それを見たクライヴの目が見開かれた。彼には倭が何と言ったのかわかった。それが、昨夜のクライヴの言葉に対する返事だ、と。

 ── ワ タ シ モ デ ス ──

 『私も離れ難く思っている──もし、それが出来たなら』

 恋でもなく、愛でもなく、かと言って、情だけでもなく。

 この運命でなかったなら、自分たちは出逢うことすらなかったのだから、と。

(……倭……!)

 クライヴの心の叫びが聞こえたのか、微かに、本当に微かに倭が微笑んだ。ほんの一瞬の微笑みの後、倭は二人に背を向け、湖の中心に向かって氷の上を歩いて征く。確かな足取りで、二度と振り返ることなく。

「……倭……」

 クライヴが洩らした震える声。レイが父の外套を掴むと、抱き寄せる腕の力が強まった。

 どのくらいの時が経ったのか。

 倭の姿が見えなくなってしばらく経つと、突然、湖面から光の柱が立ち上がった。

「……これは……!」

 驚く二人を尻目に、そこから離脱した光の欠片のひとつが飛んで来る。

「……あれは……?」

 その光の欠片は、不思議そうにつぶやくレイの前に来て止まった。それを見たクライヴが息を飲む。

「父上……これは……?」

 光の欠片から発する微かな母の気配と、別の何かの気配。それはレイにも感じられた。悪い気配は感じなくとも、母以外のそれが何なのか、正確には誰なのか、レイにわかるはずもない。

「心配はいらぬ。それは母上と、母上が守ってくれていたある人の魂だ」

 クライヴが答えた次の瞬間、それはレイの中へスーっと融けて消えた。

「母上はわかりました。母上が守っていたある人と言うのは……?」

 見上げるレイに、クライヴは小さく笑いかける。

「……これから、そなたに全てを教えて征く。母からは教わらなかったであろう、全てを……」

「はい」

 頷くレイを、クライヴは抱きしめた。残された、ただひとつの“希望”を。

(まだ、早い……私がレイに謝るのは、倭のように最後の最後だ……!)

 心の中で叫ぶ。

「……戻るぞ。これからそなたは、父と共に、父の国へと参るのだ」

「はい」

 ヒューズたちの待つ場所へ戻るべく、クライヴはレイを抱き上げた。

 もう一度、倭の眠る湖を見つめ、つぶやく。

「……待っていよ……」

 その言葉を最後に、クライヴも二度と振り返りはしなかった。

 東洋の血を引く、若き黒髪の伯爵が誕生するのは、これより5年の後。

 当代ゴドー家当主クライヴ・カーマインが家督を譲ることを宣言し、自身の望みで東洋のある場所に還ると決めてしばらく後のことである。
 
 
 
 
 
〜魔都に烟る外伝/還・完〜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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