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〘異聞・阿修羅王19〙亀裂

 
 
 
 指の先から冷えて来る感覚を押し留めようと、毘沙門天(びしゃもんてん)は握った手に圧を加えた。

(何と言うことだ……!)

 実際に顔色が変化している訳でなくとも、内心、蒼白と言って良かった。

「インドラ様……」

 想定し得る中で、これは最悪の状況だった。

 説明を求める気持ちと、今さら説明など意味をなさないと言う気持ち、何らかの説明があるに違いないと思いたい気持ちが、入れ代わり立ち代わり押し寄せて来る。

「どうした? 阿修羅が罷り越している? だから何だと言うのだ?」

 眉ひとつ動かすことなく、インドラは言い放った。

「……何と言うことをなさったのです、インドラ様……!」

 だが、それには答えず、ただ毘沙門天を凝視する。

「何故(なにゆえ)、このようなことを……!」

 何故、と問われ、インドラは視線だけで背後を見遣った。

「この娘が気に入った。故に、連れて参った。何ぞ不都合でもあるか?」

「それならそれで、他にやりようはあったはず! それを、拐かして来るなど……この須彌山のために在り、貴方に仕える者たちを何と心得ておられるか!」

「拐かしたなどと……この娘を連れて来たことが、左様に不満か?」

 だが、そう問うたインドラの眼(まなこ)が、僅かに細められたことに、毘沙門天は気づかなかった。

「……なれば、この事態、どう説明すると申される……! 物事には、踏まねばならぬ手順や、尽くさねばならぬ礼がありまする。その娘がお気に召したのなら、尚のこと。とにかく、今すぐこちらに……阿修羅王の元へ一旦お返しください」

「返さぬ」

 一瞬、毘沙門天には理解出来なかった。

「何と……!?」

「返さぬ、と申したのだ。何故、わざわざ返さねばならぬ? このまま傍に留め置くことに、何の不都合がある?」

「ですから、物事には手順と言うものがある、と申し上げているのです! 阿修羅王の娘ともなれば、迎えるに憚らぬ身分……それをこのような……礼も何もないではありませぬか……! ここは一旦返し、正式な手順を踏まえ、晴れてお迎えになれば宜しゅうございましょう!」

 さすがの毘沙門天も、あまりの聞き分けのなさに苛立ちを抑え切れなかった。だが、立場を慮る毘沙門天と、そう言ったものに囚われようとしないインドラでは、所詮、噛み合わない歯車である。

「先刻より、手順だ、礼だと申しておるが、手順を踏んだからどうだと言うのだ? そんな形ばかりのものに囚われて、一体、何の意味がある?」

 毘沙門天は思い知った。真っ直ぐに己を見据えて来る眼には、むしろ本音も建前も、威勢も体裁すらもなく、いくら進言したところで、今のインドラには通じぬものなのだと。

「……意味などと……」

 呻くように洩れた毘沙門天の言葉に、何か思いついたように口角を緩める。

「なれば、この娘を正妃とすれば文句はあるまい?」

「…………!」

 毘沙門天は文字通り言葉を失った。あれ程に望んでいた立后を、よもや盾に取られるなどと考えても見なかったのだ。

「戯れではない、とわかれば良いのであろう? 体裁も整い、その方らが口うるさく催促する正妃の問題も解決出来ようぞ」

「そう言う問題ではありませぬ! 阿修羅王が納得するとお思いか!?」

 思わず声を荒げるも、インドラは身動ぎひとつしない。

「貴方は、我らを……八部衆を軽んじるおつもりか……!」

 肩で息を整えようとするも、インドラの視線に容赦なく射られた。

「納得させるが、その方らの役目であろう」

「…………!」

 一言に突き返され、毘沙門天の眼が見開かれる。

「阿修羅に伝えよ。今、この時より、その方の娘・舎脂(しゃし)は、我が正妃として遇する、と」

 毘沙門天は瞬きも出来ずに立ち尽くした。握りしめた拳が震え、腕が、全身が、呼応して戦慄く。

「どうした?」

 突き放すようなインドラの眼差しに、他の道は指し示されていない。

 逸らすように俯き、瞑目した毘沙門天は、黙って踵を返した。

「一体、何があったのだ……!?」

 部屋の前で待機していた増長天(ぞうちょうてん)と持国天(じこくてん)は、凄まじい形相の毘沙門天に驚き、息を飲んだ。

「お主たち、覚悟致せ」

「だから、どうしたと言うのだ……! 阿修羅の娘は、本当にインドラ様がお連れになったのか……!?」

 ギリギリと音が洩れる程に食い縛られた歯。必死に堪えるべく唇を噛み、毘沙門天が呻いた。

「……決裂だ……」

 二人が顔を見合わせる。

「天は二つに分かたれる……!」

 怒りとも、悔しさとも、絶望とも取れる声音で言い放ち、毘沙門天はひたすらに重い歩を進めた。

 門前には、他の八部衆も広目天(こうもくてん)に呼ばれ、既に緊張した面持ちで揃っていた。

 物問いたげな面々を置き、正面に立った毘沙門天を、阿修羅が返事を促すように見上げる。

「……インドラ様からのお言葉だ」

 阿修羅を除き、その場にいた全員が固唾を飲む。

「そなたの娘・舎脂は、本日、今、この時より、我が正妃とする……と」

 空間が凍りつく。

「……勅命である」

 その瞬間、阿修羅の近くに立っていた数人の番兵が、弾かれたように飛ばされた。次いで、火の粉が混じる熱い風が、足元から螺旋を描いて舞い上がる。

 それを見た毘沙門天は、インドラと阿修羅の間に、埋ることのない亀裂が穿たれたことを思い知らされた。
 
 
 
 

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