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中込遊里の日記ナントカ第85回「圧される」

(2016年3月1日執筆)

2月14日の朝5時頃、破水で目が覚めた。予定日よりも19日も早い。まさか、と思ったが、これが破水でなくて何なのか。羊水とはほんのり桜色なのだと知る。

実家の両親が車で迎えに来てくれ、7時近く、実家の近くの産婦人科に入院。破水を正式に確認後、入院案内をかんたんに受けて、早速朝食。まだ羊水が流れ出るだけの妊婦なので、ただ美味しく頂き、感染症を防ぐ薬を飲み、眠る。短き眠りの後、検査。すぐに昼食。検査。陣痛はまだ来ない。

退屈なのでロビーで新聞を読んでいると母が面会に来る。母とともに、今朝産まれたばかりの赤ちゃんを見学する。なんと小さいのだろう、と思う。この小さな体のこの先の未来を思えば、涙。私も数時間後、この命に出会うというのか。実感はない。

お腹の張りが安定しないので、このままそうであれば翌日朝6時から陣痛誘発剤を投与開始するのだという。書類にサインをさせられる。薬はできれば使いたくないと思っていたが、こういうものか、と、受け入れる。

早い夕食の後、だんだんと生理痛のような締め付けが訪れる。寝ても腹中の活動で目が覚める。しかし、本陣痛とまでは至らずに、2月15日朝6時から、計画通り、一時間置きに一錠ずつ投与開始。効果はすぐに表れる。朝食を食べている間にも苦しくなってき、ひたすら横になる。入院後もう何度目か、機械を腹に付けられ、赤ちゃんの動きと腹の張りを検査。投薬。陣痛強くなる。

11時、院長先生に診てもらう。階下の診察室に降りるのにも、陣痛押し寄せ、休み休み移動する。赤ちゃんは大分降りてきている。子宮口は1センチ大。これが10センチになると全開といい、「イキミ」開始なのだという。どうなることやら、想像がつかない。ともかくお産が進んでいるということはわかるのでほっとする。と、次の瞬間には陣痛。動けない。腰をさすってくれる看護師さんに「この先もっと痛くなるんですよね」と聞くと、「今のように喋ってなんかいられなくなるわよ」と言われ、そうだろうな、と、覚悟する。

陣痛は20秒から30秒ほどで収まり、7.8分ほど間隔が開く。その隙に着替えや移動を済ませるが、トイレに入っている間にも動けなくなる。測ってみれば確かに7.8分ではあるが、体感時間は2.3分。もう充分だというのに、この上、点滴を施すのだという。一刻も早く出した方が健康ということだろう。

12時前に点滴開始。「昼ごはんは食べられるか」と問われるが、この先どのような攻めが待ち受けているのやら検討がつかないので曖昧に答えると、少な目の昼食が差し出される。食べなければ体力が持たないと思い口を付けるが苦しくて半分も食べられない。しかし、味は美味しいし食欲もあるのが不思議だ。食事に力を入れているという産院だけあって、マグロの刺身と山掛けなんかが出る。食べきれぬ好物を横たわりつつ眺めながら、陣痛とは病気ではないのだな、とぼんやり思う。

13時頃、点滴の速度が速められる。陣痛の間隔は5分程度になる。母が来るが、ほとんど喋れない。看護師さんの言う通りになっている、ゴールは近いぞ、と、汗だくになりながらも自身を励ます。検査後、再び速度アップ。子宮口はあっという間に7.8センチに。自然の初産だと、1センチからここまで開くのに8時間以上はかかるというが、促進剤の効果か、思った以上にスピーディーに分娩台へ。点滴投与から3時間ほど。とうとう目前、出産。

予想外だった。この頃には、痛みという感覚ではなくなっていた。陣痛が最高潮に達すると、この世のものとは思えない痛み、身体がバラバラになるような凄みだと聞かされていたのに、そうではない。ただ、肛門を突き破るような「圧される」という感じ。体がガクガクと震える。何かすさまじい勢いのあるものが迫りくる、暴れている。

妊娠9ヶ月頃、母親学級というものに行き、分娩の際には糞尿だろうがなんだろうが出るものは全部出すという心掛けで臨みなさいと教わった。想像すると、妙に興奮した。人が禁じられている、恥ずかしいことを、この時だけはすべて許され、それが子孫をつなぐ自然と思うと、高揚と崇高とを覚えた。

ドンドコ、圧される。容赦ない。肛門・陰部のあたりを、身体の内側から攻めたてられる。何かが出そうになる。それを我慢する。意思に反して体が震える。私は命をつなぐためだけに存在する動物になる。非日常の興奮からか、それは実際のところ快感に近いのだ。まさかお産が快感に結びつくとは、つくづく果てしない。

分娩台の上、子宮口が全開になったのを確認してすぐさま医師は準備を始める。いよいよイキミを始めるのだ。そこからはテクニックだった。医師のアドバイス通りに体を使うのみ。「腰の下にスキマを作らず角度をつけて」「20秒以上息を止めてイキんで」「下痢便をあのライトに向かって飛ばすつもりで!」なるほど、腹から出したことのあるものといえばそれしかない。さすがプロの導き方だと感心する。

言われるがまま何度かイキみ、股を覗き込むと、確かに頭が出てきた。髪の毛だろうか、チクチク感じる。ビデオで見た通りの光景に興奮して「なんか出てきた!」と声に出し、「なんか」も何も赤ん坊だろう、と心の中でツッコミを入れる。案外冷静なものである。

この頃合いをみて院長先生が駆けつける。テキパキとしたその姿に安心する。安心したからなのか陣痛が遠のいた気がする。院長先生が「陣痛が弱いな」と呟く。見ただけでわかるのか、さすが、とまた感心するが、感心している場合ではない。挟まったままでいつまでもいるわけにはいかない。なんだか焦ってしまって、ちょっと痛むかな、と思うくらいで「まあいいか」ともう一度イキんだ。

先に声が聞こえた。短きクレッシェンド。ぬるりん、と、全身が見えた。産声は安定して大きくなった。

「女の子です」と、泣きじゃくる赤ん坊の顔を見せられても、一仕事終えた私は呆けるだけで、なお実感はない。達成感で涙するかと思っていたが、現実はこんなものだろうか。それより、私の出血が多いらしい。しかも胎盤がなかなか出ない。「まあいいか」でイキんだのが悪かったのだろうか。しかし、医師に任せるより仕方ないのでじっとされるがまま。

数分後、ようやく胎盤が出た。すると院長先生が「ほら見てごらん」と私の胎盤を他の医師に見せている。気になって訊ねると、いわゆるへその緒が変なところに着いているらしい。出たばかりの胎盤を見せてくれ、胎盤ではなく卵膜というところに付着していると解説される。珍しいことで、「普通は死んじゃうことが多いんですけどね、結果がすべてなので」と、サラッと恐ろしいことを言われてさすがにうろたえた。とはいえ、なるほど結果がすべてに変わりない。これもまた「まあいいか」で受け入れねばならぬことのようである。

妊娠中に想像した出産の神秘さとは遠く、なるようになる、で産まれた命であった。もちろんのこと、生きることは神秘で貴く、当たり前ではない。だからこそ、なるようにしかならないものなのかもしれない。

さて、覚悟はしていたはずだが、あまりにも突然、私のもとに新生児がやってきた。産めば本能で母親らしくなるかと思えば、まったくそんなことはない。こんな見知らぬふやふやしたものを預けられてもどうしたものかわからない。知識と技術と時間が必要なのだと知る。授乳の方法、おむつの扱い方、沐浴。そんなことを習っている間に、なんとなしに赤子に馴染みが出てくる。入院中の病院は、まるで母親教習所であった。

なんと人間は丁寧で弱いのだろう。野生動物ならただ黙って子を成す。弱い個体は失し、母親は涙も流さない。赤ん坊のかわいさの感じは、「可愛さ」とも「可哀さ」とも合うと思う。まるで猫のようにうなったり、手をぐんと伸ばしたり、欠伸したりする様は、媚がなく実にさわやかな愛らしさだ。けれど、将来の保証はなく、大人にできることはあまりにも少ない。ただ一日一日を「なるようになる」で育まれるのが人間なのか。そう頭ではわかっていても、あまりに頼りのない小さき体を感じれば、ただ健康で、と祈るばかり。命はあまりにも哀しく貴い。


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