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中込遊里の日記ナントカ第101回 「優しい気持ちになれる演劇/『八王子学生演劇祭2019』を終えて」

私の両親は音楽好きの小学校の教員であり、幼少期の私はミュージカルで育った。

その影響で、小学校時代の将来の夢の作文は「学校の先生」か「ミュージカル俳優」のどちらかで、ミュージカル俳優として生きるのは難しそうだから学校の先生の方が安定して現実的なんだろうなあ、となんとなく思っていた。

しかし、時は経ち、私の小学生の時にはなかった仕事が今はある。演劇と教育の実践例が西洋から日本に輸入され、文部科学省が平成22年から「芸術家派遣事業」を開始した。学校に俳優などの演劇人を招き、授業の一環として、演劇を使ったコミュニケーション教育を行うものだ。

また、教員の働き方改革のひとつで、部活指導を外部の専門家に引き受けてもらう「部活動外部指導員」も平成29年から制度化された。私も都立高校演劇部の外部指導員を勤めている。そんなふうに、演劇人が教育現場に立ち入る機会は多くなった。

教育における演劇の役割を考える時、大きくは以下のことが期待されると思う。

・孤立しがちな現代社会の中で子どもたちの居場所を作り、自己肯定感を生み出す。
・コミュニケーション能力を高め、学びへのやる気を引き出す。

美術などの他の芸術にも同様の効果が期待されるが、演劇の場合「他人になる」という特性が、子どもたちが居場所を作りやすい大きな理由なのではないか、と思う。

生まれてから今日まで捨てるわけにもいかなく付き合ってきた面倒くさい自分から離れ、他者の言葉を喋り、自分じゃないものになる。そこに、「もしかしてここには自由な別世界があるのではないか」と思わせる演劇の力がある。

少なくとも私は、自分とは別の人生を送れる、しかも何種類も何回も、というところに惹かれて、中学時代から思春期を演劇とともに過ごした。

さて、後者の「コミュニケーション能力」とは何なのか。

グーグル先生に聞くと「他者と意思疎通をスムーズに行う能力」といった類の言葉が出てくる。10代・20代中心に広まっている「コミュ障」という言葉は「コミュニケーション能力に障害がある」ことの省略で、器用に他者と接することができないことを言うようだ。

演劇は一人では作ることができないので、他者と協力して創作するという点で、コミュニケーション能力が育まれるというのは理屈に合う。チームで何かを作るのなら演劇でなくてもよいわけだが、やはりここでも「他人の人生をシミュレーションする」という演劇ならではの特性が教育に向いているのだろうと思う。

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前置きが長くなったが、私が総合ディレクターを務めた「八王子学生演劇祭2019」が2019年12月21日・22日に八王子文化芸術会館いちょうホールで開催された。

中学生以上25歳以下の出演者を公募したが、中学生、22歳以上の社会人と出会うのは今年は難しくて、集まってくれた高校生から21歳以下の団体・個人が2日間で5作品を上演した。

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この2日間を通して、上記の「コミュニケーション能力」について私なりの答えが出たという手応えを感じたので、それを書きたい。

主催である八王子市学園都市文化ふれあい財団が目指すことは、演劇によって学生が輝くこと。58万都市である八王子市は広く、歴史が深い。さらに学園都市ともうたわれていて、21の大学・短大などがある。「八王子学生演劇祭」は4年目ということだが、その事業目標が達成されているとは言い難く、隣の立川市で高校生と演劇を創っていたという縁で私が招かれたのだった。

八王子学生演劇祭2019では、私と財団の演劇担当の荻山さんとで、「遠くまで行こう/みんなで創る演劇祭」という言葉を軸に据えた。公募で集まった4団体には私と荻山さんが決めた課題戯曲を上演してもらう。創る過程にはできるかぎり私も付き合う。個人参加者は、私が演出を担当して出演者みんなで戯曲を創って上演まで結びつけるオリジナル作品を上演する。

(詳しくは八王子学生演劇祭のブログをご覧ください。)

団体には「課題戯曲」個人には「市民」という他者に向き合ってもらい、その創作過程を私と荻山さんと大人のスタッフたちが共にする。その過程も、ブログや上演の前後のトークで観客に開く。また、上演と上演の間には俳優と一緒に優れた戯曲を読み合わせしてみようというイベントも用意した。

課題戯曲には高校生や大学生が経験したことのない状況や人生観などが含まれている。それを考えなければ上演は不可能。まず考えるだけでかなりのエネルギーと時間が割かれるのだが、決して狭くはないホールで上演し、その日は延長できない、という追い立てられ方は演劇の良さである。

何かを決めることはとても難しい。答えのない舞台芸術に答えを出すということなのだから。だけど、決めなければ上演はできず、大人も他の人も決めてくれない。それを示すために私は、彼らの稽古にできるだけ具体的に首を突っ込むことにした。「決めるのは自分だよ」と言ってもなかなか決められない。だけど、具体的に表現に意見を出す人がいると、そうじゃないんだよなあ…、か、そうか、そうだったかも、とのどちらかに触れて、決まる。

だけど、全5作品のすべてに同じ手法は通用しない。団体ごとに課題や状況、環境は異なり、また一様に稽古・準備時間が大変に短く、とにかくスピード勝負だった。完成、満足していなくても幕が開く。彼らの限界値で責任を取る。

だから、数時間前の場当たりと本番はまるで違った。本番の1時間強、観客の目にさらされながら彼らが舞台に立つ姿を見て、彼らにおける「俳優とは何か」を私なりに考えた。「人とどのように関係を取るかを台本を通して体現する人たち」ということが思い浮かんだ。

人とは、相手役(共演者)であり、観客である。

プロの俳優(ないし大人)に対して若者たちが圧倒的に足りないのは人生経験だ。社会の中で人間に揉まれた経験が足りない。もちろん個人差はあるが。

俳優は、社会での人間観察をもとに舞台の上に架空の人物を立ち表す。それは専門的な能力だ。人間を深く観察して表現に昇華させる訓練を積まないとその能力はつかない。そのためにはある程度社会の中で経験を積まなければならない。そして、その経験は観客を知ることに直結する。

観客/共演者という他者にどのような態度で接したらしっかり関係が取れるのか。お客さんは何を観に来るのか?何を喜び、何に冷めるのか?そういうことを体験を通して知ることで、必ず、彼らの今後の創作は上向きになるし、実社会においても少しは生きやすくなるんじゃないか。そしてそれが演劇を通じて「コミュニケーション能力を養う」ということになるのではないだろうか。

八王子学生演劇祭のディレクションにあたって私は「彼らの作品を絶対に消費させない」と決めた。キラキラした若者の舞台を無料で見られるという受け身を観客に取ってほしくない。学生たちと一緒にそれぞれのレベルで自分事として考えてほしいと思った。

一方、優しい気持ちで彼らに向き合ってほしい、その環境を作ることが私の仕事とも思っていた。コミュニケーションの根本に横たわっているのは人への慈しみ、優しさだと思う。絶対的に人は人を欲しているし、とことん素直になれば人は誰もが弱く、それをさらけだせる環境さえあれば底知れず強くなるのが人だと思う。強い人ほど、人に優しい。

若者と観客をつなぎ、コミュニケーション能力を醸成させるのが、学生よりは多少演劇の経験がある私の役割。2020年も同時期に八王子学生演劇祭の開催が決まっている。甘やかすのではなく、緩く楽しむのではなく、真剣に優しい気持ちになれる演劇祭を目指したいと思う。

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演出家。音楽劇・鮭スペアレ代表。多摩地域の中高生×シェイクスピア×中込遊里「たちかわシェイクスピアプロジェクト」代表。「八王子学生演劇祭」総合ディレクター。東京都立川市在住。4才女児の母。