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親密な関係

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#小説

第四章 冬のぬくもり 10

   10

「ちょっと赤くなってるところがあります。このあたり、どうですか?」
 真衣の指が私の腰の右上のあたりに触れる。とくに異常は感じない。私も手をのばして、真衣の指が触れているあたりにさわってみる。かすかにぽつぽつとざらつきがあるように思う。指先で強めにこすってみると、わずかなかゆみがある。
「床ずれとまではいわないけれど、たぶん血行が悪くなるんだろうね、吹き出物ができたりかゆくなったりす

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第四章 冬のぬくもり 9

   9

「どこかかゆいところはないですか?」
 と真衣がいう。そしてくすりと笑う。
「まねしてみたんです。美容院でシャンプーされるときにいつも訊かれるじゃないですか」
 そうなのだろうか。
 私は二か月に一回くらいのペースで美容師に家まで来てもらっている。寛子さんの知り合いの美容師で、自分の店を持たないフリーの美容師だ。だれかの家や施設まで出かけたり、契約している美容院の空《あ》いている椅子を

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第四章 冬のぬくもり 8

   8

 私の背後に回った真衣が、シャワーの栓《せん》を開《あ》け、温度の調節をする。
「お湯、かけます」
 私はうなずく。立てた膝に両肘《りょうひじ》をあずけ、うつむいた格好で頭にシャワーを受ける。
「熱くないですか?」
 私は首を横に振り、顔に伝わってくるお湯に邪魔されながらぶくぶくとこたえる。
「だいじょうぶ。ちょうどいい」
「シャンプーはこれですか?」
 片目をあけると、真衣がプラスチ

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第四章 冬のぬくもり 7

   7

「わかりました。じゃあ、普通に話しましょう……じゃなくて……話そう、かな」
「はい」
「なんの話だっけ?」
「話をそらしちゃってごめんなさい。朝のお仕事の話をしてたんです」
「そうか。私の朝の日課を邪魔したんじゃないかって、きみは気にかけてたんだったね」
「はい」
「朝の――とくに夜明けごろの時間は、私にはとても大事なんだ。それは確かなんだけど、だからといってかならず仕事にあてるわけじ

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第四章 冬のぬくもり 6

   6

 事件の前は、自分の身体的自由や自立をうたがったことはなかった。どこへ行くにも、なにをするにも、それは自分の自由であり、選択肢は自分がにぎっているものと思っていた。いや、思うことすらしなかった。そんなことをかんがえさえしなかった。しかし、大怪我《おおけが》を負《お》い、人の手を借りずに立ちあがることもできなくなったとき、人はそもそもだれかに依存せずに生きていくことなど不可能だということ

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第四章 冬のぬくもり 5

   5

「ちょっと窮屈かな? 大丈夫?」
「先生こそ」
「私は全然平気。遠慮しないで、脚をのばしたらいいよ」
「のばしてます。みじかいんです、わたしの脚」
 真衣がおどけてそんなことをいうのが、私にはたまらなくうれしい。
「そんなことはないだろう。きれいな脚だ」
「自分の脚に劣等感があるんです」
「どうして?」
「バレリーナみたいなまっすぐな脚にあこがれてるのに、膝が出てるし、太ももと太すぎる

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第四章 冬のぬくもり 2

   2

 私はベッドを離れると、衣服を着て、手すりをつかんで階段をゆっくりと階下へと降りる。いつもおこなっている動作だが、それは転落しないようにという注意が働いているためだ。今朝はそれにくわえて、眠っている真衣への意識がある。
 キッチンに行き、やかんでお湯をわかす。そのあいだに、冷蔵庫からコーヒー豆がはいった容器を出し、電動式のミルに豆をいれる。分量は手のひらではかる。いつもは手のひらに一杯

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第四章 冬のぬくもり 1

   1

 いつものように早朝に目がさめる。何時に寝ても、だいたいおなじ時間に目がさめる。そのあと眠くなることもあるが、とにかくいったん目がさめる。
 いつもは寝る前に遮光《しゃこう》カーテンをすこしあけ、夜明けの光が射《さ》しこむようにするのだが、今日はそれを忘れている。が、遮光カーテンのむこうはおそらくうっすらと明るくなっていることを私は感じている。
 午前六時をすぎているだろうか。
 私の

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第三章 晩秋のひかり 17

   17

「わたしも先生を大事にしたい。先生のお身体の回復にわたしも役立ちたいです」
「役に立ってますよ、十分」
「ほんとですか。それってどんなことですか」
「こうやって来てくれたこと。真衣がここにいるだけで元気になります。きみが来てくれなかったあいだ、とてもつらく、寂しかった」
「ほかになにかできることがあるといいんだけど。マッサージはどうですか? この前みたいに」
「ありがたいですね。マッ

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第三章 晩秋のひかり 16

   16

 自分にいい聞かせているのかもしれない、と思いながら、私はそういう。
「きみがいま、ここにいる。私の腕のなかにいる。私がここにいる。きみを抱きしめている。いまがすべてなんです」
「はい。これがずっとつづけばいいのに。永遠につづけばいいのに」
「それは事実にはなりにくい」
「わかってます。でもいまは事実でしょう。わたしがもっと早く生まれていたらよかったのに」
「それは仮定の話ですね」

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第三章 晩秋のひかり 15

   15

 彼女が私のところに来るのは、安心だけではないという。もっと積極的ななにかなのだという。しばらくここに来れなかったのは、自分のなかにあるその積極性がこわかったからだという。自分が積極的に私に接近することで私に迷惑がかかり、結果的に遠ざけられることがこわかったのだという。私からうとまれるのではないかということをおそれていたのだという。
「なぜ私がきみをうとんじる必要があると思ったんです

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第三章 晩秋のひかり 14

   14

 彼のことを話すのはあんまり気が進まないです。でも、先生がそれを望まれるなら、すこしだけ話しますね。これはもう話したと思うけど、彼は大学の二年先輩です。絵画ではなく造形のほうをやっていて、とくにインスタレーションがやりたいといってました。去年の春に卒業して、画廊でアルバイトをしながら制作をつづけてました。画廊はバイト代が安くてそれだけじゃやっていけないのと、制作費も必要なので、夜はラ

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第三章 晩秋のひかり 13

   13

 真衣の身体の動きが止まる。死んだように呼吸も止まる。私はそれを予測していて、彼女のパニックが手にとるようにわかる。
 彼女がほんとうに死んでしまわないうちに、私は説明を試みる。事件による脊椎《せきつい》の損傷が身体のいたるところに麻痺をもたらしたことを。幸いなことに、それらの大部分はリハビリの成果もあって回復しつつあるが、一部はまだ機能しない部位が残っていること。その残っている一部

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第三章 晩秋のひかり 12

   12

「ただこうしていたい、ような気がします。ただこうしているだけで安心していて、これがつづくことを望んでいるのかもしれません。でも……」
 真衣はすこしことばを宙に浮かせる。
「先生がなにかされるなら――望んでおられるなら、そちらに行ってみたい気もします。とてもどきどきするけれど、あまりこわいとは感じてません」
「この先に進むことの決断を私に任せたいんですか?」
「はい、ってこたえるとず

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