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エッセイ / 寒いことのよさを考える

私はいま、人生で一番寒い冬を過ごしている。

今まで住んだなかで最北の地にいるのに加え、外気温とあまり変わらないような小屋に住み、暖房器具が一切ないなかで寝起きをしているのだ。年が明けてからは水道管が凍ってしまい、水道・シャワー・トイレが使えなくなったこともあった。

改めてこうして文章に起こしてみると、好き好んでそんな生活をしている自分はただの馬鹿なんじゃないかと思えてくるが、私は現在住み込みで修行をしている最中で、郷に入りては郷に従わねばならぬ身分なのだ。今も布団に頭まで潜りながらこの文章を書いている。

寒いのがあまりにつらいので、発想を転換するために寒いことのよさについて文章を書いてみようと思ったのだが、さて、全く思いつかない。いつも「どんな物事にも光と影がある」などと偉そうに語りがちな私なのに、寒さに関しては影しか見えてこない。と、そんなことを考えていたら、昨晩はいつの間にか眠ってしまった。そうして年明けからずっと続いていた1日1noteの記録が途切れてしまったこともまた寒さのせいだと、ますます寒さを呪いたくなってしまう。

今日はなんとしてでも寒いことのよさについて書いてやるぞ、と、日中の修行の合間にいろいろと考えていたのだが、その結果思い至ったのは、寒さというのは、それそのものが光と影でいえば影の存在なのかもしれないということ。そして、そのなかに無理に光を見出そうとする必要はないということだ。

そういえば、知り合いの芸術家がこんなことを言っていた。

「寒いっていうのは、僕にとってはすごく必要なことなんだ。寒いと憂鬱な気持ちになる。そんな憂鬱な気持ちをしっかり味わうことが、作品づくりに生きてくるんだ。だから僕は寒いところに住んでいるし、実際、芸術家には寒いところに住む人が多い気がする」

たしかに、ネガティブな気持ちのときにしか気がつけないことや、出会えない感情、書けない言葉って、結構あるよなぁと思う。

私はこれまで、ネガティブな物事をどうにかしてポジティブに捉え直そうとすることが多かった。今回、寒いことのよさをなんとしてでも見つけ出そう、と思ったみたいに。でも、ネガティブなものはネガティブなままにしっかりと味わう、というのが、実はいいやり方なのかもしれない。

物事の光と影は、光がよいことで、影が悪いこと、と思ってしまいがちだが、光にも影にも、同じくらいの価値があるのだと思う。影は光に転換しなくても、影としての価値があるのだ。

ふと、「陰極まりて陽となる」という言葉が頭に思い浮かび、改めて意味を調べてみた。諸説あったが、こんな解釈もできるようだ。

陰に入った時にいかに自分の内面を磨き、充実した日々を送ることができるかによって、陽に入った時の生活が一段と充実したものになる。

相変わらず寒いのはとっても憂鬱だけど、これからはその憂鬱さをしっかりと味わってみよう。そうすることで、人肌の温かさや、太陽のありがたみ、春の待ち遠しさなど、今しか気がつけないことに気がつけるだろうし、憂鬱を極めてこそ、素晴らしい陽を迎えることができるだろうから。

それにしても寒い。。

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