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2024.6.9 sun 雨

なぜかわからないけど、今日はずっと頭痛に悩まされている。
少し前には、気圧の変化で頭痛が…なんて聞けば、そんな経験がないから嘘だろうと思っていた。頭蓋骨を骨折したくらいから、その気圧の変化の頭痛というものをやっと理解した。頭痛とはなんなのか?よくわからない。

今週までは帰るのが深夜で、3時に寝るのが定刻だからか、今朝は団地の区役だったのにも関わらず、起きた頃には終えていた。
その後も頭が痛い。
でも何かしなければと思いつつ、写真を貼り出した襖の前にずっと座ったまま動けない。写真を見ているのか、何かを考えているのか、ずっと頭が痛い。

そうこうしていたら夕方になりバイトへ。
車のフロントガラス越しに見える景色。
3号線を超えばすぐ山になるのだけど、山といっても低い。
だけども、めずらしくその低い山にも雲がかかる。
雲近く。
手が届きそうだ。
手が届きそうなのに、雲の中に入れば霧になる。

小さな頃、雲は個体だと思っていた。アニメでは、雲を綿菓子のように食べたり、雲の王国のように雲に乗っていたからだ。
だからその頃、家族で出掛けていた阿蘇で雲の中に入った時、霧になった雲、雲は気体だということを知って、それはそれはショックだった。

小学生の自由研究で雲のことを調べたくらい、雲と空が好きだ。

人の手と同じように、空は雲が話す。

話すというのは、言葉を話すのではなく、その時の季節や天気を雲が教えてくれるということだ。

そして、空を見ていれば涙は流れずに、前に進む。坂本九か…
しかしながら、散歩をしながら空を見ると何かしら考える。そうした時にこそ、浮かぶことが多い。

今日、ずっと考えていたことの糸口が見えた気がする。
でもまだ書かないで、自分のうちでもう少し考えてみる。
考えることもだけど、もう少し学ぶことが必要だと思うから。
何が必要なのか、先は見えないけども、見据えながら考える必要はある。

誰か、何かを排除するということはしたくはない。だけど、平たく等しいようには進めることの難しさを感じた。
だから、それぞれを活かしつつ、しかし、社会的信頼につながるような、動きを考えたい。
それには少し、写真とは別の分野を自分自身が学ぶ必要がある。
でも、ようやく糸口が見え、まだすぐに何かをとは思えないものの、静かに考えて、動いていようと思う。

ずっと、外と内ということを考えている。

"視野は外に向けておく"必要があると常々思っている。
ここら周辺でそうしたことを口にすれば、地域外(基本的に都会を指すと思う)や国外と、単なる物理的内外に捉えられ、単なるミーハーのように思われ、嫌味を言われたり、疎外されていく現実がある。

ただ、地に足をついていても、着実な活動をしていたり、そうした人々を見守ってきた人たちからはそれは当然のこととされ、その先から話せる。
そのギャップに長いこと違和感を感じている。

単に海外思考、都会思考がいいというわけではもちろんない。

だけども、今現状、国自体が後進国でもある。
考えは多様だけども、外を見ればもっと別の問題に取り組み、失敗と成功を繰り返してきたからこそ得られているものがある。得られていないものもある。
それがこの国やもっと狭く地域で活用できるかというとわからない。
でもケースとして知っておけば、組み合わせて有効に使えるケースもある。

ましてや私は写真を生業にしている。
世の中を変える、ような大きなことができるわけではない。
写真は、"真実を撮る"なんて言われることもあるが、思っている以上に簡単に嘘をつく。実像を箱に収めていても、収め方次第で、事実のように見せかけれるということだ。だから、世界報道写真(wpp)のほかでもかもしれないが、応募したその前後のカット、さらにRAWデータなら加工していない元データ、フィルムの原本などが必要になる。今まで実際にグランプリをとったものでも、所謂"やらせ"や"合成"があったからだ。

なかったことをあったことにする。
逆に、あったことをなかったことにする。
写真には容易いことだ。

だからそこで問われるのは人間の資質でもある。
写真に限ったことではなく、活動自体が何をするかということもあるかもしれないけども、その人の動き自体が資質でもある。
そうした大きなことを他者にいう前に、自分自身に問い続ける必要をずっと言い続けているのだけど、やっぱり誰がどうということではなく、自分で自分を俯瞰していくものだと思う。

話が逸れたけども、私の仕事は、その"内"と"外"の繋ぎ目を担っているのだろうと思う。だから、外の人が考えやすいように、内の人の見えにくい部分が伝わるように、とその両者をずっと行き来している。
内によりすぎると、外へは届かない。
なぜ届く必要があるのか?と問われれば、渦中にいる人以外はその心情を理解しようも、想像しようもないからだ。届かないということは、何も変わらない。何か決定を下す組織、人間は常に外にいる。
そして、外の人は思っている以上に無関心で無知だ。それを責めようとは思わない。私も他のことは知らないのだから。

世間を変えよう、成し遂げようと、でしゃばるようなことは考えていない。
でもいつもほんの少しの願望を、小さく、ささやかだが、触れやすくなるように、何か考える糸口や、直接ではなくても記憶の端っこにあるだけでも、いつか何かの時に役に立つと思っている。
そうした人たちから、教わったことから今考えることが多いから。

だけども、内側をみすぎると、内によりすぎて、本当に必要な判断がつかなくなる。近いと見えないということでもある。それは今取材している人と同じだ。

人権や社会問題一つにしても、海外には日本より優れた取り組みがる。
アートを利用した方法も、もっと多彩だ。
表現ということへの概念も、理解も違うのだからそれは当然のことなのだけど、ここで有効に使える手段がないか、ケースを知るためにも視野は外に向ける必要がある。
そしてそれを外に向けるのは、みる人からも学べることを知ったからだ。海外では特にみる人の方が目が長けている。

ここら辺では、どうしても単に名前を売りたいから、でしゃばりたいからと言われるが、そんな単純なことではない。
ただもっと先に、広がりを感じるからだ。
そうしたことへ理解されないことに窮屈さを感じてきた。理解されないこともだが、水準にも難しさを感じたのが事実かもしれない。
数多くバイトをしてきたが、基本的にトップの人の素質のあるなしでもバイトを辞める、継続するの判断をしてきた。学ぶ事がある時は収入や勤務時間より続けることを選択する。
私も、地方の人間ではあるけども、ないからしょうがない、田舎だから、と言い訳のような御託を並べても腑に落ちない。
だけど、窮屈だからと無視して、外側だけで、地域が、被災地が、と言われることに違和感を感じてきた。
だから内にいる人、あることも活用する必要がある。
それだけでは無理があるので、やっぱりもう少し外に視線を向けたい。
まだ答えが見つかったわけでもない。
でも少し、何かを思いつけたのかもしれない。

外側と、内側。
のことをずっと考え続けている。


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