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見せかけの愛が文化を破壊する

「二次創作」という言葉があります。

美術手帖が芸術にまつわる言葉の解説をまとめたコンテンツ「ART WIKI®」にはその意味について、「既存の作品を何らかのかたちで利用し、派生的に新たな作品を創作する表現行為を指す」と記述されています。マンガやアニメ、ゲームといったポップカルチャーのなかでも、特にアンダーグラウンドなところで醸成されてきた文化活動だと、私は認識しています。

SNSの発達からしばらく経った昨今、私たちがそこで目にするコンテンツは、いわゆるところの「二次創作」ばかりになってしまいました。どこを見ても、誰かがこれまでに創作し、一定の成果を上げた作品のまとめや切り抜きばかり。なかには盗用のようなものまで存在しています。

本来の「二次創作」は、権利者に対するリスペクトありきで使われる言葉だったような気がします。それがいつからか上っ面の意味だけが独り歩きし、権利者へのリスペクトなしに、そうしたコンテンツが蔓延る世の中となってしまいました。

このような環境はやがて、創作者の存在に無頓着な社会を誕生させます。いや、むしろもう誕生し、すくすくと育っているとさえ言えるでしょう。

ある楽曲を「良い曲だ」と称賛しながら、シンガーの存在にしか着目せず、作詞・作曲者の名前を知ろうとしない。ある映画を「良い映画だ」と称賛しながら、キャストの存在にしか着目せず、監督・脚本家の名前を知ろうとしない。

この構文はそれぞれの単語を入れ替えれば、あらゆる文化に流用できるはずです。

先日も印象的な場面に遭遇しました。私はスポーツが好きで、元プロ野球選手が投稿するYouTube動画をよく観るのですが、Twitterのタイムラインを眺めていると、数時間前に投稿された動画の印象的な場面が第三者によって切り抜かれ、ツイートに添付されていました。そのツイートはたくさんのリツイートやいいねを獲得していました。私がそれを目にすることになったのも、フォローしている人がリツイートしたからです。

もちろん世に埋もれているコンテンツを発見し、なんらかの色をくわえて、より多くの人に届けることも、ある種の創作活動ではあるでしょう。けれどもその場合、世に広まったことで最終的に大きな利益が得られるのは、大元のコンテンツを制作した創作者でなければならないはずです。

先の例では切り抜きとして加工され転載されていたため、YouTube上に投稿された動画へのリンクがあるわけではありませんでした。おそらくリツイートやいいねを押した人のほとんどが野球に興味を持っている人でしょうから、少し調べればどこからやってきたコンテンツであるかはわかるはずです。それでも特に意識することなく、そのツイートに反応してしまうことこそが、創作者の存在に対する無頓着さを表しています。

私は上京して住む街に、東京都墨田区を選びました。その理由のひとつには、ものづくりが盛んな街であること、オーナーの顔を見られる個人経営のお店を好むことがあります。

「二次創作」という言葉によって正当化された創作物によって、価値ある文化が淘汰されてしまわないために、いち受け手にもその誠実さを見極める目が必要だと感じています。

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