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恵まれた幸せで優しい人ほど冷たい

Twitterで、同性婚をした男性が「自分は恵まれていて幸せで差別もあまり経験したことがない、こういう同性婚もある事を知ってほしい」的なことを言って、なんだか紛糾していた。

紛糾の背景を見ると、「そんな幸せなのはLGBTの権利活動の結果だからそこに感謝すべきみたいに言われても、別に個人的には彼らの活動のおかげで幸せになったわけじゃないし」的な事を言って、活動している人たちもお怒りになるひともいれば、活動が嫌だと感じているLGBT当事者が「私も嫌だと思ってた」といいはじめ、そこに自民党杉田水脈議員みたいなLGBT活動大嫌いな人たちが便乗して揚げ足を取りはじめ……という、壮絶な展開になっていた。

いやあー、すごく思ったんですけどね。
LGBT問題から始まった話だから、こんなふうにもめましたけど、発端になった人の発言というか、言い分は、一見ごもっともで何も間違ってはいない、という事が問題を深くしている。

彼は、恵まれて幸せで、優しい人なのだ。
だからこそ、本当に冷たい

今回の問題は、LGBTという意志を持った大人たちを中心とする人々のテーマだったから、ちょっとややこしくなった。
でもこれが、児童虐待の事だったらどうだろう。

「僕は虐待にあったけど今は幸せです。だから、虐待についていちいち大袈裟にかまう必要はないんじゃないですか?」

みたいなことを言ったら、おい待てそりゃないだろ、ってなると思う。

「僕は片親家庭だったけど恵まれて幸せだったので、片親支援なんて大袈裟な事やる必要はないんじゃないですか?」

みたいな。

ちょっと、適切ではない言い換えではありますけど、今回の紛糾はそういう事がベースにあって、そこにLGBT嫌いが混ざってきているので、収拾がつかなくなっている感じがした。

恵まれて幸せな人は、それゆえに優しく社会性を持ち合わせている。
が、彼らはびっくりするほど冷たいのだ。
優しいのに冷たい。

例えば、彼らのしたことでこちらが傷ついたといったら彼らは「不愉快な思いをさせたのなら謝ります、ごめんね、僕は悪い事をしたとは思っていないのだけど、君は謝ってほしいというから謝るよ、それが君に対して誠実な対応だし、そうする事が正しい人としての在り方だし」っていう誠実さを出してくる。

まったく、こちらの事は理解していない。
すがすがしいほど、わかっていない。
理解なき誠実さ。態度はいつでもジェントルマン。

そういう人は、人的資産も経済的資産もたくさん持っている事が多いので、切実な恐怖とか絶望とかには疎い。知る必要がないのだ。

別に性的マイノリティーだからってひとくくりにはできない。
金持ちもいれば貧乏人もいる。
優秀な人もいれば、愚かな人もいる。
ここでは、その中でも恵まれて幸せな人が、不幸な人たちを「何ムダな事やってんの」って言ったようなことなので、分かり合えることはないと思う。

ここで言いたいのは、性的マイノリティーの事ではない。

恵まれて幸せな人は、不幸な人に対して極めて理解がなく冷たいという事だ。それも無自覚に。

本当にどん底体験をした時、「私はこんなにひどい目にもあったけど、ごはんもなんとなく食べていられるし住む家もまあまああるし、シベリア抑留の人たちと比べたら大変幸せかもしれない」という事を思い、それから「同じ状況にある人たちであっても、その人たちの苦しみがわかるわけでもないし、相手が私の気持ちをわかるわけでもないな」という事を病院のベッドを仕切るカーテン越しに思った。
そして、もうひとつ、「私が諦めた大学進学も、頑張ってやっていたら失敗してひどい目に合うとかもあったかもしれない、進学した人たちも苦しい事はいっぱいあっただろうな」という事も思った。

たまたま、私は紆余曲折があった。
そして、ほんの少しだけそれを受け入れる余裕があった。

たまたま、他の人の苦しみを知るわずかな事があった。
その他人の苦しみを見た時に、私の中にあったのは、圧倒的な「ふーん」という他人事感だった。

もっと共感して、一緒になって泣いたり怒ったりすると思ってたのに、私にとってはそれを見ても「ふーん」「へー」だった。

似たような経験をしたことがあっても、この他人事感!

それでは恵まれて幸せな人たちが厄介な状況を理解する事は、なかなか厳しかろう。責めるだけ無駄だと思う。

本当のダイバーシティというのは、そういう見えないところにあるんじゃないかと思う。
いろんな尺度で分かり合えない人たちが、同じ場所で仲良くやる方法。
表面上は仲良く、内側では文句を言い合う、そんな程度で十分だ。今はそれさえできない事がたくさんある。
ただ、それを先導している人たちの多くが、恵まれて幸せな人な何も理解していない、理解できないが、表面だけはソフィスティケイトされたジェントルメンだったりするので、話がややこしくなる。
恵まれた人は学歴も高く社会性も高いので、そういう役割を担いがち。

なにも理解できない人が、頭のよさや人の良さのみで「あるべき姿」を演じていく。


私たちは、理解できない。
お互いの事を、きちんと理解し合う事は不可能なのだ。

でも、恵まれて幸せな人たちは、理解できると思っているふしがある。
分かり合えると思っている。自分は受け入れられているという感覚がどこかに大きくあるからだ。
だから、きちんと話し合えば、相談したら、それなりの知性があればそれは可能だと思っている人たちが結構いる。
たとえ知性がなくても、人として朗らかに優しく接したらいけると思っているふしがある。

そうやっても理解し合えない事は山ほどあるという事を、全然受け入れない。
受け入れる、受け入れないというのと別のベクトルで、それがあるということを見ようともしない。彼らにとってこの世界は優しく、がんばれば応えてくれるものなのだ。

私は、恵まれて幸せな人たちに変わってほしいとは思わないし、無理だろうと思っている。表面的には非常にいい人たちで、優しく真面目で本当に問題に対して真摯な姿勢を持っている。そこは彼らの持つ力そのものだ。
別にそこを損なう必要はない。

それよりも、「彼らは理解などしない、理解しようとしているけど、理解はできない」という事を、責める事なく受け入れる事が、傷ついた側のダイバーシティ施策じゃないかとも思う。

そして、自分も絶対に何かを理解できないし、そのことで誰かを傷つけてしまうのだろうという事を、覚悟しておくという事じゃないかと思う。


恵まれて幸せな人たち、表面的には紳士的で明るく優しい人たちが、本当は何も理解できずひたすら冷たいという事さえわかっていれば、こんなに物事がややこしくなることはないのだ。

そして、それでも分かり合える時がくるかもしれない。

そんな奇跡が起こるように、大切にし続けていく精神の体力というかスタミナを失わないようにしないといけないなと思う。
(私は嫌だと思うと、ブチッと切り捨てるので、本当に友達が少ない)



LGBT周りの議論というのは、こちらの記事が背景など含めて分かりやすいんじゃないかなと思いました。


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つよく生きていきたい。