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値段と集客方法で人となりとセンスが大体わかるから怖い

いろんなサービスや製品があるけれど、自分で作ったり売ったりしていく中で何となくわかるようになったことがある。

値段と集客方法で、商品やサービスの傾向や哲学や実力や、人間性やセンスなどがぜーんぶ見えちゃうってことだ。

微妙に下手な展開をしていても「そうならざるを得ない理由があるのだな」と感じて責められないし、あるいは何らかの障壁をうまく回避するために不備がわざわざ残されていたりすると、めっちゃセンスを感じる。
だから、端的に上手い下手では計れない。

逆に、たとえ無理をしてこの状態を提示しているのかもしれないけど、という価格帯や集客方法を取っている場合は、それがたとえ一時的であってもできるという力の強さとセンス、人間性、哲学を感じて、すごく褒めたたえてしまう。

キレイにデザインされてパッケージされていても、スッカスカのゴミみたいなサービスも結構ある。そういうのも、微妙に感じ取れるオーラが出ている。(感じるだけなので、ちゃんと精査してから判断しなくてはいけない)
そういう場合は、値段(極端な安売りか、ちょっとぼったくり気味かなど)と集客方法のどちらか、または両方に雑さがある。
サービスから商品から全部が雑だと、ある意味何の問題もない。
内容は古臭いのにパッケージだけ異様に今の流行りっぽいとか、10mくらいありそうなランディングページとか、インスタだけ異様にきれいとか、看板が異様に喋りまくる(文章を書いちゃう)とか、何らかのひっかかりがある場合は、何らかの問題がある。

一番多いのは、クソコンサルに食いものにされているケース。
動画マーケティングとかインフルエンサーとか言っちゃって、おしゃれっぽいパッケージにしたり、とにかく商品・サービスとそのほかがかみ合っていない。
ああー、広告代理店の都合だね…みたいなこと、ザクザクある。
500人に知られることよりも、5人に確実に買ってもらう事のほうが大事なビジネスはいまだにたくさんあるのに、500人に知られる方を大事にしろとコンサルが押し付けてくるし、世の中の流れがそんな感じになって流されてしまう中の人の心の弱さ。

いい商品を作っていても、集客・広告部分でコケていると、いいように食い物にされて搾取されて、それを回避できなかったんだなって。
ああ、騙されやすいなにかがあったんだなって、感じる。

それか、やってる本人の素人臭さ。
手作り作家的に動いてきちゃって……というパターンも、ビジネスとして成功できるかどうかは売れているかどうかだけでは決まらない。
(ちなみに、私自身も基本的に天性の勘だけでビジネスを転がしているのでそういうところがすごく弱いという自覚がある……のでいつも怖い)

また価格設定も、哲学とセンスがすごい出る。
ある意味、何をいくらで売ろうと自由なのだ。もちろん法に引っかかるのはダメとか、いろいろあるにはあるんだけども、基本的に自由。
だから、そういうのにいろんなものが集約されて表出する。
この前は漆塗りの職人さんが「昨日今日作り始めた素人の工作みたいなものを1000円で売られて、こっちが同じものを5000円で出してもネットじゃ安い方が売れるので、話にならん」という事を言っていたけど、そういう歴史的文脈、地域経済に入っているかいないかなどまで把握して値付けできているかというのも、そのビジネスの構造がどうなっているかを端的に語ってしまう。
そういうところを意図的に破壊してしまう「破壊的イノベーション」というのも、どこまで意識的か、あるいは無自覚かということは、ビジネスを動かしていく中で大きなカギになっている。

これは売れる売れないとはまた別の話だ。

多くの人は、売れる売れないにしか興味がない。
そこもすごく大事だけど、それを大事にするなら、余計値段と集客方法はダイレクトに関わってくる。

そこに、狡さ、せこさ、貧乏くささも全部出る。
焦りも、ビビりも、全部出る。
哲学やセンスの良さや人望も、全部、全部だ。

怖い。ほんと怖い。
焦りやビビりがなくビジネスできる人なんて、ほんとに少ない。
うまくいっていても、いろいろダメになっていい状態が崩れるとか普通のことだ。
だから、そういうのは責められないってわかっている。

だけど、下心や誠意のなさ、幼稚さ、誰に向かってのアピールなのか、場合によっては悪意もちゃんと見える。

ただ、私個人としては、悪意のほうが善意より評価が高い。
一番ダメなのは、意志と意図のない消極的な善意から発生したサービスや商品だ。これは関わる人を一瞬いい気分にさせて、最終的には全員を不幸にする。
それに対して、悪意があっても誠意と仁義があれば全然ありだ。
善意より悪意のほうが個人のモチベーションは強く持続する。その発露が犯罪や強烈な搾取でない限り、問題となることはない。
善意のほうが被害と罪が深い。悪意のほうが生産性がありよりよい未来を創造しうる。簡単に目先のことで判断するのは愚かなことだ。

どんな形であれ、ビジネスはひとつの表現方法だ。
絵をかいたり、歌を歌ったりするのと同じなのだと思う。
演劇や、ライブ、インスタレーション作品のような、距離と時間を飛び越えて多くの人を巻き込んで存在する表現方法だ。
だから、価格も集客方法も、そこからたくさんのことが読み取れる。

そういうことを言うと、すぐに「じゃあどういうのが正解なのか」という話にながちなんだけど、そういう事じゃないと思うのですよ。
それよりも自分がどういうことを世に問いたいのか、表現したいのか、アピールしたいのか。
その人は何を感じ、何を求めてアピールし提供しているのか。
それだけです。

もちろんお金が欲しいというのはあるかもしれないけど、お金さえ入れば自分以外全員死んでもいいと思っているのと、みんなから慕われてのんびり暮らしたいって思っているのでは目指す先が相当違う。
お金なんて通過点でしかないのだから、その先をどうするかのほうがビジネスの上では重要です。
そして、その通過点とその先を示すのが、値段と集客方法がかなり大きな部分を握っているということです。

正解はない。
あっても変動する。
その中でベストを探し、自分のできることをどれだけ表現して、客=誰かに肯定されるかという一連のやり取りのフロントラインが価格と集客方法。

ここの物語が見えてしまうと、すごい一言では言い表せないいろんな気持ちが湧いてきます。

飲食店のメニューでその店のオペレーションと食材の仕入れと管理を創造するみたいなもんですね。席数と回転率も何となく読めて、ついでに立地でイレギュラーボーナス(コンサート施設があって局地的な集客があるとか)があるのかないのかを考える、とか。
そういうこと、すべての場所でできるわけです。
コンビニはすべての棚と商品構成を見ます。ペット用品多いと、ここら辺マンションとか多いけど買う場所がないんだなとか、住んでる人の様子も想像できるじゃないですか。
ねえ、ワトソン君!僕はロンドン中すべての泥を把握しているのだ。
ホームズはこんなふうにロンドンを眺めていたのだろうか?
そんなふうに、すべてのことが目の前にあることで読むことができる。

あくまで、仮説ですけどね。
必ず検証作業が必要だけど、それはそれですごく面白いことです。

人間て面白いなって、そういう時たまに思います。

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つよく生きていきたい。