ケーキは哲学的である

 #お菓子 というお題が出ているのを見て思い出したんだけど、つまりケーキは哲学的な存在である。

私には共感覚とはっきり言えるものはないのだけれど、味覚と聴覚の一部が共鳴し合うようなところがあって、パッションフルーツの華やかな酸味は金管楽器の明るいファンファーレのようにも聞こえるし、チョコレートの(加工の種類にもよるけど)苦みの深い味は弦楽器の低音に聞こえる。
レモンは高音域だけど、金属というよりガラスに近いような、でも比較的厚みのある手吹きグラスみたいな感じであったり。パティシエによっては切り刻んで鋭いガラスナイフみたいに仕上げてくる人もいるけど、はちみつと合わせると角が取れて透明感だけ加えるような感じ。

スパイス類も結構音がして、特に音が高いのはカルダモン。これはやっぱり金属的な音で、高音の打楽器、グロッケンとかかな?パーカッション系の楽器は名前が定かでないです。
シナモンは、安定していてちょっと独特な和音。和音だからいろんな素材にうまく噛みあう。
バニラは、人の声であまり鍛えていないソプラノというか、どこかモタモタしたくどさを持っていて、それが強み。華やかだけどとっつきやすい敷居の低さを演出しながら気位はめちゃくちゃ高い。非常に嘘の似合う女って感じ。みんな彼女にウソをついてほしがる。

いわゆる料理とは違い、お菓子は使用する素材は限られてくる。
肉や魚を使う事は、まあない。ミートパイはお菓子じゃない。
それが非常に哲学的なアプローチだと思う。
いえ、哲学的とはどういう事なのか、はっきりわかっていないけれど。

料理は、複合的な視点から最適解みたいなものを妥協の上に最大公約数のように表す。ような気がする。
消化によく、栄養がどうの、食材はこれで、予算があって、技術も限られている、時間も制限がある、などなどいろんな事が重なっている。

でも、お菓子は「卵白の泡立てが荒すぎる!生地が死ぬ!」「計量が命!」「その生クリームは泡立て過ぎない、分離したらアウトだ!」みたいな軍隊のような厳しいルールが存在して、それをはずれるとまずうまくいかない。
砂糖100gなんか少ないほう、200gとかよく使う。
(個人的には一台のケーキに砂糖は80g程度がいいです…)
妥協はすなわち死である。

お菓子作りは、スポーツにも近い。
規律、ルール、トレーニングが何より重要であり、同時にセンスも必要とされる。味覚のセンスよりもバターの解け具合とか熱のまわり方を把握し、余熱で火を通すか、すぐに火からおろして冷ますかを即座に判断し実行していくようなセンス。
言っちゃあれだが、味覚のセンスなんかより、そういう素材に対するセンスのほうがよほど重要で、味覚のほうは多種多様なお好みに沿えるくらい自分のこれといった信念がないほうがいいくらいだ。

だから、お菓子は戦いである。
規律であり、スポーツであり、芸術であり、哲学である。
身体性を要求され、素材の構成に文化的成熟を要求されるような。

すごくうまいケーキ屋さんがあった。
うまいというのは味がというより、技術がうまい。もちろん味もすごかった。

キャラメルのムースは上にのせられたプルーンと干しイチジクというありがちな素材が完璧だった。プルーンのヨード感とイチジクのカリウムな感じがそれぞれキャラメルのムースに会うとキャラメルが違う表情を見せる。
ムースなのに、重い。とにかく重い。最高です。
私はムース系のケーキは嫌いだった。飲み込むのか吐き出すのかわからないモノが口の中に入っているような気がして、うまく呑み込めない。安いムースは水っぽいせいもあって、それでそう思っていたのだろう。
でも、この重いムースはすごい。
バナナも嫌いだった。あえて食べる必要がない果物だ。でも、ここのケーキではあの香りも食感も、そのままなのに特別だった。バナナのいやらしい癖がアクセントになって、やっぱりずっしり重い。

フジコ・ヘミングがひくショパンの「革命」みたいですよ、癖が強くて、それでいてわかりやすい!あるいは浅田真央が滑るラフマニノフ。すごい、そしてわかりやすい、でも重い!

どこのケーキ屋さんかっていうと、まあそれは内緒です。
東京のお店ではありません。地方の、小さなお店です。

ケーキひとつでここまで楽しませてくれるんだから、パティシエにはエンターテイメントの才能があると思う。

重さ、あるいは軽さ。
味の要素、香り、食感。
甘さの種類、適切な形。
その上、見た目の美しさ。

お菓子は全く難しい。
で、あっさり食べられておしまいである。
なんとも儚く無残な存在だろう。
哲学というのも、往々にしてそういうものだ。

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