野生の馬、あるいは焼き印のない子牛たち
ムスタング。野生の馬。
マーベリック。
焼き印を押されなかった子牛。はぐれ牛。
どちらも孤立して動くとか、組織に縛られないとか、一匹狼みたいな意味合いの言葉だ。
馬とか牛とか狼とか、わくわく動物ランド。
先日、自由な働き方をしたい人たちの集まりのことを「一匹狼の集まりにしたい」と表現しているという話を聞いて、その場にいた全員で「それってもう群れじゃない???」ってなった。
一匹狼の群れは普通の狼の群れである。
最近、ちょっと大きな会社のありようを見る機会があって、もう全体的にがっかりしすぎた。すごくきれいな建物のリッチな部屋で、くっそつまんないワークショップをして、とにかく「主催者側の大企業を喜ばせる感じ」のイベントで、めまいがした。
マーベリックとして生きるには、積極的にアウェイに出ていかないといけないというルールがある。そこで活躍する必要はなくて、とにかく違う世界に足を突っ込むというか、見聞を広めるのが絶対に必要になる。
(じゃないと視野が狭くなって最終的に社会とかなりずれた閉鎖的新興宗教的な感じになったり、そうと知らずに詐欺を働くことになって立件されたりしちゃう可能性がある。本当に本人にその意思がないのに、だらしなさが最大の理由で1000万円クラスの詐欺罪として訴訟された人とかいたらしい…)
私の魂はもうマーベリック、ムスタング、ローンウルフなので、ある意味大会社というのは、異国なのだと思う。魂にとっての異国。言葉も通じない。たとえ同じ日本であっても。
だから、そこにある種の憧れもあるし、マーベリックもムスタングもローンウルフも群れの中で生まれ育ったものだから、そこに所属できなかったという負い目も少しは持っている。
だから、だから、その大企業というような場所は、圧倒的に私にできないことを素晴らしい仕事としてやっていてほしいし、そこに所属している人たちがひれ伏すくらい才能とセンスの塊であってほしいと願っている。
単なるハーロー効果で、そうあってほしいと思っているだけなんだけど。
そういうのをバッサリと裏切る人ばかりいるので、そりゃ独立したいとかフリーランスになりたいとか口走る人もいるわなって。
私はもう魂がムスタングなので、所属に対する苦しみがすごくある。
そばにいないでほしいとか思っちゃう。
自由でいたいし、そのための大きな支払いをする用意もある。精神的、肉体的に。家族は持たない。それは所属になるから。もちろん、どこかに就職することも、しばらくはないだろう。
あるいは、帰属意識の少ない誰でもできるような仕事なら、やってもいいと思っている。
所属できないものは、自由に生きてもいい。
社会がそれを許してくれなくて、所属に死ぬほどこだわり、結婚できていないことや正社員でないことに悩むくらいなら、マーベリックになっていい。
私はそう思うけれど、日本の現実の社会がどんどんと崩壊し始めていて、所属さえ許してくれないようになっているのも何となく実感する。
それなのに、所属できないことはスティグマだ。負の烙印だ。
私は最初から所属の焼き印をつけることさえできなかったマーベリックだったようで、負の烙印たるスティグマをもらいそびれてしまったのかもしれない。そうであるなら、ラッキーなことだ。幸運だ。
負の烙印を押されるくらいなら、最初から焼き印のない、保護もない生活をする。それは、社会としては正しくないと思う。誰もが大切に守られ生きるのが理想だからだ。
でもその理想では、魂の自由は守られないことがある。
私は、魂の自由を優先して、大切に保護される生き方を手放した。
これからどんな人生があるのかわからない。不安のほうが大きい。いつも孤独だ。それは私が心から望んだものだから、しびれるほど愛おしいものなのだけど、孤独が人間を苦しめるのはどんな場合も同じである。
私は自分を苦しめることもある孤独が、すごく好きだ。
1週間誰とも会わないとか余裕である。
それでも、まあなんとか課税事業者になっている。いつも神経を張り巡らせている。この綱渡りを渡り切るために。
ただ自由でいたい。それが私のモチベーションであり、魂の在り方だと思う。誰かに教わったり、見習ったわけではない。
魂が、マーベリックでムスタングでローンウルフだっただけだ。
誰かといると、私は自分がどんどん透明になっていく。
自分自身というものを捨てたくなる。
そうして、ある日私は捨てた。
それから、とても快適だ。
これは悲しい生き方だと思っていた。
そして不幸なあり方だと思っていた。
本人は、全然そんなことなくて、逆に驚いている。
むしろ幸せを感じることが多い。
孤独とはとても幸せなことだ。それが苦しくて涙を流すことがあったとしても、それ以上に。
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