泥棒の買い物

ものを売る立場になって、それも自分たちが一から作ったものを売るという立場になって初めてわかったことがある。

消費者という存在は、なんて横暴なんだろう、ということです。

彼らは、一円でも安く買おうとする。
もう買うのではなく、奪っていく。
売る、ということをよくわかっていないと、その横暴にしたがって安売り競争をして売り手は消費者に絞め殺されてしまう。(どちらかというと、私の実家はそうやって破産寸前までいった)
それは消費者が悪いのではなく、売り手が悪いとされる。
売れないのは売り手が悪いからだとされる。
だから、経営努力して、経費を抑えて価格を下げて、品質は上げて、サービスは細やかに丁寧に行う、そうすればお客がついて買ってくれる……。

そうなの?

いや、100歩譲ってそうだとして、それやりたい??

実際に売る立場になって、どれほど自分が消費者として横暴だったのかを痛感した。
でも痛感したとしても、お金のない状態は変わらなかったし、ほしいものや必要なものを手に入れるのに一円でも安く、と思う気持ちは消えはしなかった。

でも、少しだけでも変えようと思った。
特に食べ物を買うときは、高いほうを買うことにした。
いつもできるわけではないから、調味料を買う時は一番小さなパッケージの妙に割高に感じられる味噌とか醤油とかをなるべく選ぶようにした。
コンビニのパンではなく、パン屋さんの食パンを買うようにした。
ほんの少ししか、変えられなかったけど。
合成保存料のたっぷり入った食品は、やっぱりおいしくない。それを避けるためにも、少し割高に感じる食品を買うのは間違っていないし、ゆくゆくの健康状態などを考えると、実はやすいものなのかもしれない。
バカみたいに高い化粧水を買うより、200円高い味噌を買うほうがよほど肌に良かったりするかもしれない。

わたしたちは、物を買う時に泥棒になっていないだろうか。
と、時々思う。
泥棒をしなくては生きていけないような、大変な生活状況にある人だってたくさんいることはわかるし、わたしとて同じなのかもしれない。
それでも、金さえ出せば泥棒ではないというルールの下で、わたしたちは毎日毎日泥棒しているのかもしれない。

逆にいうと、定価で物を買うというのは、それだけでリスペクトになりうる。

正しい買い物は、時に自分の一部を買い戻せたようなしあわせをくれる。
それはものだったり、時間だったり、いろんなものがそれに当てはまるとおもうのだけど、とにかく、そういった買い物をしたいと思う。

これからも泥棒のような買い物をしなくては生きていけないような環境は続くのかもしれない。でも、そうじゃなくて、

正しい買い物をしたい。

それには、売り手の意識もとてもとても重要で、ただ安くするだけではだめだし、高すぎて買ってもらえないのもやっぱり自分の首を絞めることになるし、正しい販売をしていかないといけないんだと思う。
それはとても、とても難しいことだ。
正解はないのだから。
だけど、それでも、その正しい販売をしていかないといけない。
自分のために、買う人のために、それが存在する社会のために。

それができるようになる前に、多くの個人で販売をしている人は、力尽きてしまう。
そして安売りを始めてしまい、泥棒に持っていかれる。

ここはもう、商売人としてのセンスとしか言いようがないものなのかもしれないけれど、商品をつくるクリエーターと、それを売る商売人は同一の人格で行うことは難しい。
わたしはかなり商売人気質の人間なので(かといって根っからのビジネスマンというわけではなく、クリエーターにかなり近い)、クリエーターのわがままも、商売人の損切も、両方わかる感じはある。
損切する時の痛みと言ったら。
その痛みは、クリエーターとしての痛みではなく、商売人としての痛みだと思う。
もう二度とこの痛みを感じたくないと強く誓うのは、商売人だ。
クリエーターは、もう少し別のところが痛む。

そんな痛みを繰り返し、利益が出るところまで持っていくのは、本当に大変だ。
泥棒に持っていかれたほうがまだましだと思ったりすることも一度や二度では済まないと思う。

それでもね、わたしはその壁を登り切りたいんですよ。
(一回、運よく登り切ったこともあった)

いやもう、のぼるとかじゃなくて、ふわっと飛び越えていきたい。
泥棒も、泥棒に奪われることも、全部飛び越えて、新しい常識があるところまで、飛び越えたい。
それができる社会になってほしい。

具体的にそれはどういうことかといわれると、まだぼんやりしているんですけれど。

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つよく生きていきたい。