自分の価値観をクツガエす/心はいつも戦時中

わたしは「商売してお金をつくる」って事をとても強く信じている。

それは、なんか一攫千金とか大型ビジネス起こして投資してもらうとか、そういう話じゃなくて、ちょっとずつ自分の手の中から何かを生み出してはそれを小さなお金に換えるという営みを、ものすごく信じているということだ。

それは、ある意味信じなくてはすぐに手放してしまいそうなほど、心が揺らぎやすい事でもあるからこそ、信じている。

あるいは、そこを大切にしなかったから借金に苦しむ羽目になって、娘の人生はきりきり舞いになってしまった家庭の出だからということでもある。

物を売って、お金を得ることは、ほんとに大切なことだ。
わたしの正義だ。

でも、ふと「お金をつかうことができないイベント」バーニングジャパンの事をしった。

http://burning-japan.com/about/

お金を使わないで生きる。お金を介在させない交流。

なんだろうな。
胸がきりきりとする、かさぶたをはがされるようなこの感覚は。

お金がある世界であったからこそ、わたしの父は部屋に灯油をまこうとした。それを止めようとした自分の虚しさも、そこを飛び出すためにお金をかき集めたことも、そのあと生きていくためにいやいや会社に行っているのも、すべてすべてお金のためだ。

お金がない世界なら、それはなかったのか。

そんなことは、きっとないだろう。(いくばくかの諦めを込めながら)

でも、いつも、わたしはお金のことを考える。
ビジネスをすることを覚えて、お金を通したコミュニケーションを知って、それがどれだけ私を救ったか。

お金があるから、生きていける。お金があるから、生きていけない。それじゃあ、どっちにしたって、世界は同じところをぐるぐる回るだけなんだろうけど。

「お金がつかえないイベント」に私が参加することになったら、どうなんだろう。

お金があるから、どれほど苦しいのかわからない。
でもそのお金を通したコミュニケーションが、どれほど私を救ったかわからないし、そしてもっと具体的に、実家の借金を返す足しになって、どれほど具体的に救われたか。
わたしはお金を得ることを、とても信じているし、それによって救われた体験を失いたくないというきもちがある。
それでも、もう一度考える。
お金がない世界になったら、わたしはどうするのだろうか。
また傷つくのだろうか。
もう癒されたり救われたりすることはないのだろうか。
それとも、もっと違う結果があるのだろうか。

何度も自分の価値観をクツガエす。

それはとても苦しい事だし、生きづらい事だ。
揺るがぬ信念のもとと言えなくても、安定した価値観の中で生きていたほうが精神の安全は保たれる。

でも、何度でも、わたしは価値観を覆していかなくてはいけない。
何も信じないで、生きていかなくてはいけない。
自分の信じたものでさえ、自分を救ってくれたものでさえも、それを手放すことがどれほどつらいものでも、わたしは手放して覆して、それで飢えて痩せて、いつも不安の中にさらされる羽目になったとしても、わたしは何度でも自分の価値観をクツガエしていく生き方をしなくてはいけない。

そんなこと、誰にも強要されてないのだけれど、それでもわたしは、そうやって生きていくしかないような気がする。

お金のことをとても信じているわたしが、お金がつかえない場所に行く。

それは、やっぱり心の中にどうしても憎しみが湧き上がる。これでお金をつくろうとしないなんて、ダメだ、そんなんじゃ、またひどい事が起こる、そういう心の中の警報が鳴り響く。
その警報は、いつまでなり続けるのだろうか。

もうそれは終わったのに。

(取り憑かれていないと生きていけない気がするんだ)

それでも、その警報が鳴り響く中、やっぱり行かなきゃいけない。
心の空襲警報は鳴りっぱなしだ。
いつだって戦時中だ。
戦時中なんて、体験したことないけど。

そうやってエゴの力で、いきていく。
エゴのために、何度も自分の価値観をクツガエしていく。
誰かのためなんかじゃない。
社会のためでもない。
つまらない自分のためだ。

自分のために、心の中は常時戦時中。

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つよく生きていきたい。