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ちゃんと怒ってる?

こんばんは。芦野です。
なんだか最近「怒ること」がとても難しいことのように感じてしまいます。かつてSNSなんかなかったころ、例えばカップ焼きそばにお湯を入れて3分経った後に湯切りをする際、なんか麺が全部飛び出たら怒ってたと思うのですよ。いや、別に東洋水産に怒りをぶつけるとか、日清食品に直接出向くとか、そういう話じゃないですけど。シンクにぶちまけられた麺を見ながら「しゃーこらー!」とか言ってたと思うのですよ。

最近感じるのが、twitterとかで些細な情報も共有するようになって、そしてまた、そういう些細なことで有名人が炎上しているのを見るにつけ、知らないうちに「気を付けないとな」とか思ってたんですよね。特に怒りの表明に関しては慎重にならないといけなくて、例えば先ほどのカップ焼きそばの例だと「お前が適度な力量で湯切りせんのが悪いんやんけ!」というリプライが先ず頭に浮かぶようになってしまった。(そんなリプライ受け取ったことないけど)

だから知らないうちに、僕はクールになった気がするんですよ。カップ焼きそばをシンクにぶちまけた瞬間、「あじゃっしゃー!」とか叫びたくなる瞬間、「クールになれよ」と誰かが言うんですよね。そして左右に首を振って「やれやれ、焼きそばの神様は今日は機嫌が悪いらしい」とか言っちゃうんですよ。それはでも、twitterで「あじゃっしゃー!」って言ったときのこと考えちゃうからなんですよね。もう間違いなく「キモっ」って言われちゃう。

それで、なんというか、現代に生きる人って基本的に怒っている人はやばい、みたいな雰囲気の中で生きているような気がするんですよ、僕も含めて。それはこの間、国連気候行動サミットでグレタ・トゥーンベリさんの演説を見て、自分自身も含め「あ、これやばいやつや(SNS的に)」と反射的に思ってしまい、実際世界レベルで大きな反感を買っていて、やっぱりなあ、と少し複雑な気持ちになった。そして「あれ、でもなんでみんなグレタさんのことこんなに叩いてるんだろう」と思ったときに、そういう雰囲気を感じたのでした。

なんか正直言って気候変動とかさっぱりわかってないし、冬がとりわけ苦手な僕としては、不謹慎だけど「あと3度くらい上がったらよいな」とか思っていた。たぶんすごくバカな考えなんだと思う。だから全然彼女の考えとか、何をそんなに切実に訴えているのか、僕にはわからないんだけど、彼女は彼女の怒りたいことに、とても素直に怒っている気がした。もちろんいろんな考えの方がいて、彼女は大人たちに操られている、と彼女の動機の不純さについてつっこむ人もいるし、彼女は注目を集めるというミッションには成功した、と事の経緯はともかく、結果オーライだよね、とフォローする人もいる。
その中で僕は、彼女はちゃんとこぼれたカップ焼きそばに「あーっしゃー!」って言ってるな、と感じたのだ。

さて論旨が怪しくなってきたのですが、僕が言いたいことはとてもシンプルで、今北極の氷の上で日に日に少なくなっていく足場を心配しながら目をきょろきょろさせているシロクマのことはいったん置いとくとして、僕もこれからはちゃんとシンクにぶちまけたカップ焼きそばに怒ろうと思ったのだ。それについてSNS上でよく分かんない人にとやかく言われることを気にしすぎて、「やれやれ、今日は焼きそばの神様が…」などと言いだすのはなんとなく違う気がしてきた。

実を言うと、このことを考えたのは一人の友人があることで悩んでいるという相談を受けたのがはじまりだった。あんまり詳しくは書けないのだけど、その人は交友関係でどうしても許せないことがあったらしい。とても辛いことを言われ、傷ついて、許せなくなっていた。

でもその人は、その怒りを表明することがなんだかとても非常識で誰かを傷つけてしまうことだと思っていた。それは全然クールじゃないし、自分の言いたいことだけを言ってしまうのはなんだかフェアじゃない気がして、自分の怒りすら正当なものではないような気がして、目の前でぶちまけられたカップ焼きそばを見つめて何を言うべきなのかわからなくなっていた。

もちろん今SNS上ではむしろ「怒りすぎる人」が問題になっているのは良く知っている、僕も「なんでこの人こんなに怒っているのだろう」と思う人はいる。だから一概にこういうことを言うのは誤解を招いてしまうかもしれない。

けどあえて言う。「怒る」というのはとても大事な感情なんだ。とてもパーソナルでプライベートな感情で、僕らはそれは絶対に大事にしないといけないんだと思う。だから「全然クールじゃない」なんて理由でそれを引っ込めちゃいけないし、フェアネスを気にしすぎるあまり自分が傷ついていることを忘れてはいけない。

でもその反面、人の怒りを知らないうちに引き受けてもいけないように感じる。それはとてもパーソナルでプライベートな感情であるから、となりの誰かがこぼしたカップ焼きそばにまでは怒ったりする義理はない。

だからこれからはちゃんと怒ろうと思う。感情に任せるのではなく、誰かの怒りに「あてられる」のではなく、ただちゃんと怒ろうと思う。

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
                    太宰治『走れメロス』

自分が何に怒っていて、どこまでが許せることで、どこまでが許せない事なのか。冷静に自分に問うてみて、冷静に怒ればいいと思うんだ。許せない事だけを、あくまでも自分の問題として、大切にね。


もしよかったらもう一つ読んで行ってください。