見出し画像

宮沢賢治とドストエフスキー

先日このような文章を書いたのだが、この文章はテーマが二つ混在していて一部分かりにくかったところがあったので、愚かさという問題における賭博者というイメージについてのみ取り出して話したいと思う。

上記のエントリーを至極簡単にまとめると、文章を書くことのうちに、理路整然と自らの主義主張を語るものと、文章を書くという行為に理路も理屈もない、よくわからない自分と言うものを放り投げるものと、その両方がなんとなく両極にある。僕は後者を愚かさの文学と呼んだ。

さて、あまりこういう話を連ねてもみな退屈するだろうから、僕が考えるこの世で最も愚かな作家について少しだけ耳を傾けてくれ。その作家の名はドストエフスキーと言うのだが、僕が彼を愚かな作家であると考えるようになったのはつい最近のことだ。

その日僕はたまたまある文章好きと話していて、彼女が宮沢賢治が好きだ、というふうに語ったのを聞き、言い得ぬ納得感を感じていた。彼女はかなりの理想家であり、賢治がもっていた「世界」というものへの大きな眼差しや、自らの真正さに対する強い熱意、活動家的な忍耐力はとてもその理想主義的な性分とマッチしているように思えたのだ。

それと同時に僕の中である疑問が湧きおこった。「宮沢賢治をドロドロになるまで煮詰めたらドストエフスキーになるではないか説」である。

勿論僕は宮沢賢治のある一面しか知らないのだが、彼の「銀河鉄道の夜」という作品を鑑賞するに、彼が極めて西洋的な、つまりキリスト教的な、生きるとは、死ぬとは、人が争う理由とは、宗教とは、そういう物事への視線が随所に注がれていることを知る。

銀河鉄道の夜は実は「完成稿」と呼びうるものは存在しておらず現在僕たちが普通に書店で買って読む銀河鉄道というのは「第四稿」と呼ばれるものだ。そして、あまり知られていない事実として、第四稿はそれまでの草稿とは大きく異なる。第一稿から第三稿までにはブルカニロ博士なる登場人物がいる。そして第四稿で突如消える。

ブルカニロ博士とはどういう人物かというと主人公ジョバンニを導く存在として描かれる。名前がなんとなく示しているように、非常に科学的で、ジョバンニが抱く「なぜ人は悲しまねばならぬのか、争わねばならぬのか」という問いに非常に明快な答えをもたらしてくれる。今はまだ異なる宗教の異なる神がそれぞれの言い分を言い合っているが、いつか「科学」がその座に就いた暁には、人は今よりもっと聡明になる、と。

さて、第三稿までのブルカニロ博士は消えてしまい、第四稿にこのような明確なアドバイスをくれる存在はいない。いわばガランドウの物語と化すのだが、僕は賢治のこの誠実さが好きだ。おそらくかれは最終的に人間など信じられなかったのだろう。科学がいくら素晴らしいものであろうとも、結局争うのは人である。

僕はこの小説を愚かさの文学と考えている。断っておくが、人間が愚かしい生き物だ、とかそういうことでは全くない。文章を綴るという行為のうちに、自らの信念を問い、魂に真正であろうとした結果、ズタボロにされたのだ。もっと具体的な言い方をすれば、頭の中で出来上がった筋書きを小説にしてもどうしても陳腐になり、それを補おうと登場人物一人一人の、情景描写のひとつひとつを吟味した挙句、最初に思い描いていたことが夢か幻であったと気付いたのだ。最初に書いたようにそれを愚かさの文学と呼んでみたという話だ。

<再掲>
上記のエントリーを至極簡単にまとめると、文章を書くことのうちに、理路整然と自らの主義主張を語るものと、文章を書くという行為に理路も理屈もない、よくわからない自分と言うものを放り投げるものと、その両方がなんとなく両極にある。僕は後者を愚かさの文学と呼んだ。

ドストエフスキーは様々な顔があり、すべてを読んでいるわけではないので間違ったことを言うかもしれない。ここではドス爺の代表作であろう「カラマーゾフの兄弟」の一部に触れたいと思う。

カラマーゾフの兄弟は3兄弟であり、強いて主人公を挙げるとするならば末っ子のアリョーシャである。彼はとても純真で人生には何か重大な意味が込められていると信じている。自らの行いは常に自らの魂に照らして真正であらねばならぬと思っている。それは特に意識することなく、当然のこととして。

そして僕はこのアリョーシャこそがドス爺の「自分自身」の投影であろうと思うのだ。若き日に政治犯として投獄され、それでも人間の高潔さを信じようとした「死の家の記録」を書いた彼の眼差しはどこまでも澄んでいる。

一方で次男イワンは冷笑的なニヒリストであり哲学者である、純真なアリョーシャにたいして答えのない倫理学的な、宗教学的な、哲学的な問いを投げかけ、いたずらに彼のその信心を揺らがせんとする。これは「地下室の手記」という絶え間ない自己懐疑の末に分裂せんとする主人公を思い出させる。あまりにも純真すぎるがゆえにその自分への懐疑が自らを貫く鋭い銛にすらなってしまうのだ。

つまり、このイワンというのはドス爺の「自分自身」の投影である。

一方で長男ドミートリ―は少々酒と人情(主に色情)に流されやすいあまりにも人間的な人間である。この文章も少々長くなってきたので、「賭博者」という小説を出すまでもなく、この人物もまたドス爺の「自分自身」の投影である。(ちなみに僕が三兄弟の中で一番好きなのがこいつだ。)

何が言いたいか。

そう、こいつは余りにも自らに対して高潔であろうと願うがゆえに、イワンというニヒリストを作り出し、ドミートリ―という「生活」の重みを知る人間らしい人間を生み出し、その魂の高潔さを汚し続けずにはいられないのである。
(これについてさる詩人と話をしていたのだが、彼は僕の話を聞くと「自我のスマブラですね」と呟いた)

もう一つのアリョーシャ(自分)いじめの例を出そう。

アリョーシャは物語序盤、ロシア正教会かなんかで修道僧かなんかをやっているのだが、そこにはゾシマ長老という極めて偉大な人物がいた。アリョーシャもこの人物にとんでもないほど敬愛の念を抱いており、とても良い師弟関係のようなものが構築される。

一方ある夏の日に、ゾシマ長老は持病で亡くなってしまう。そして、ゾシマは多くの僧侶たちに慕われていたので「聖人の遺体は腐らない」という噂が協会に流れ始める。「ゾシマなら…ゾシマならきっとやってくれる」である。噂の真偽をどう思っていたかは分からぬが、幼いアリョーシャも当然ゾシマは偉大な人物であることを信じている。
そしてこの話の顛末は言うまでもない。

これが俗にいうゾシマが臭い問題である

このように宮沢賢治が銀河鉄道において、自らの魂の真正さを問い続けた結果ブルカニロ博士を消失させたのが仮にリンゴジュースだとしたら。ドス爺がアリョーシャという自らの信じる魂の高潔さを体現するものを自我のスマブラによってぶっ飛ばし、「ゾシマが臭い」という虐めを繰り広げるのはもはや、リンゴジャム、いや、鍋の底に焦げてこびりついたリンゴジャムの残骸である。


本題に戻ろう。

僕は宮沢賢治もドストエフスキーも愚かな作家だと思っている。決して聡明ではないし、どちらかというと中二病っぽい。けれども、僕たちが小説、殊純文学を読むのは決してそこに人類普遍の明々白々な答えを見つけ出すためではなく、そこで何かを信じ、信じたものとは違う別の何かを手に入れる、その過程、不確定性、個別性を愛しているからである。

このことは今日僕が何かを信じ、CR海物語の筐体に万札を吸い込ませ、信じたものとは違うものを手に入れたことと奇妙なほど似ている。僕たちはその過程(900回転ハマり)、不確定性(魚群リーチ三回外し)、個別性(隣のおばさんが20連荘)を愛してい

くそがーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。