ゆめやうつつ

 電話の先に梓(あずさ)がいる。薄いスマートフォンを隔てた向こう側から、梓が生きている気配が伝わってくる。美しく整った唇から漏れ聞こえる躊躇いがちな呼吸音や、耳に心地よい衣擦れや、梓が飼い始めたのだろう猫の、鈴を鳴らすような鳴き声。そんなものが次々と乾きったわたしの中に流れ込んできて、身体の隅から隅まで彼女が沁みわたっていく。
「……会いたいの」
 たった一言にすら滲み出る育ちの良さや独特の沈黙の長さは、切ないほどに昔のままだった。わたしは瞼を閉じ、その声に耳を傾けた。雑音混じりの懐かしい声を聞くだけで、二人きりで見つめあった夕暮れの教室が蘇ってくる。あの教室は、今でもわたしのすべてだった。
「ねえ、帰ってきて」
 痛いほどの沈黙に耐えられなくなったのか、梓は意を決して口を開いた。その声は隠しきれないほど震えていて、甘やかな過去に浸っていた意識は一気に現実へ引き戻されてしまう。わたしは、震えてしまいそうになる声をなんとか押し殺し、平静を保っているように見せかけることに意識を集中させる。
「……わかった」
 躊躇いながらもそう答えると、梓は安堵を滲ませた大きなため息をついた。わたしの言葉で緊張の糸が切れたのか、再会を喜ぶ言葉が堰を切ったように溢れ出す。興奮しているせいか内容が少し支離滅裂になってしまっている。
「梓、落ち着いて」
「ごめんなさい、嬉しくて」
 梓の声は、心から楽しそうに弾んでいた。わたしは彼女のように無邪気に喜ぶことはできず、唇を真一文字に結んで梓の声を聞いていた。                
 置き去りにしたはずの過去に、予期せず再会してしまった。治りかけていた傷が膿んでしまった時に似た鈍い痛みに襲われる。この痛みはどうしたら消えるのだろう。わたしはその答えを、なんとか見つけ出そうともがいていた。

 着替えや化粧品を詰め込んだバッグを手に、ほとんど乗客のいない新幹線へ乗り込む。日帰りの予定も考えてはみたけれど、「日曜日に帰ればいいでしょう」と引き留められることは目に見えていた。
 梓とは高校を卒業して以来会っていない。今日の再会が、およそ6年ぶりの再会になる。6年あれば生まれたばかりの子どもは小学生に、小学生は中学生になってしまう。言葉にしてしまえば呆気なく聞こえるが、目も眩むような途方もない時間がわたしたちの間には横たわっているはずだった。大学を卒業して日々仕事に忙殺されているわたしは、それを感じずにはいられない。でも、梓はその時間を軽々と飛び越えてきた。それが少しだけ恐ろしかった。
 わたしが年をとっただけなのだろうか。そんなことを考えながら、椅子にもたれてお世辞にも美しいとは言えない荒れた手を見下ろす。そうしていると、記憶の奥底にある梓の顔や声や体温が、次第にはっきりとした輪郭を持ち始めていく。
 梓のこと、自分のこと、ずっと昔に突きつけられた呪いのような言葉。過去に仕舞いこんだはずのものが頭を駆け巡り、ひどく息苦しい。その息苦しささえ過去に繋がってしまう気がして、わたしはバッグから取り出した水をゴクゴクと飲み干した。

 あなたたちっていつも一緒なのね、まるで恋人みたい。
 わたしと梓をそう評したのは誰だったか。とにかく名前すら思い出せないほど遠い人間だったことは確かだ。他人にも等しい人間にさえ、そんなふうに思われてしまっている。まだ大人にはなりきれずにいたわたしたちはその事実に上手く向き合うことができず、ぎこちなく笑うしかなかった。
 わたしは雨上がりのじっとりとした空気のように鬱陶しく纏わりつくその言葉を消し去ろうと必死になった。けれど、結局どうしたって払いのけることはできなかった。眉を寄せて苦く微笑んでいた梓も、きっとそうだったのだろう。
 ごく普通に学校生活を送るなかで、わたしも梓もお互いを特別扱いすることはなかった。顔を合わせれば挨拶をするし、隣り合うことがあれば世間話もする。そんなどこにでもいる当り前の「友人」を、わたしたちは必死に演じていた。どこか閉塞感の漂う女子校という場所では、目に見えないほどの小さな火種でも燃え盛る炎になることがある。それがどれほど恐ろしいことか理解できないほど、わたしたちは愚かではなかった。
 愚かではなかったけれど、素知らぬふりして常に無関心を装えるほど聡くもなかった。今にして思えば、意識して互いを遠ざけていても、ふとした時に二人きりになることが多かった。それがクラスメイトたちの目には、ひどく不自然に映ったのだろう。                      「恋人みたい……ですって」
 梓はすっかり困り果てたように力無く微笑み、黙々と日誌を書いていたわたしの右手に触れた。そして壊れ物のように華奢な両手でわたしの手を包み込むと、その上に白い額をあてて黙り込んだ。梓のか細い手や薄い肩は、なにかに怯えるように小さく震えていたけれど、わたしは祈りにも似たその仕草をただ黙って見つめていた。
 誰もいない静まり返った教室に、風がカーテンをはためかせる音とひぐらしの鳴き声が響いた。校庭からは部活に興じる少女たちの、憎らしいほど楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「恋人みたいに、ずっと一緒にいられたら幸せね」
 それは違う。そう答えようと開きかけた口を咄嗟に閉じた。梓の零れ落ちそうなほど大きな瞳が、縋るように葉月を見上げていたからだ。梓は二人で一緒にいることが幸せだと、本当にそれを信じていた。長い睫毛に縁取られた黒目がちの瞳や、絞り出すように発せられた言葉には、一片の曇りさえ見出せなかった。影が落ちた薄暗い教室の中で、涙をいっぱいに溜めた梓の瞳だけが唯一、きらきらと輝いている。わたしはその涙を出来る限り優しい手つきで掬いあげた。
 それじゃ梓は幸せになれない。
 確信めいたものがあった。その考えは随分前から、沈殿した泥のようにわたしの深い部分に溜まっていた。けれど、終わりに怯えて静かに泣いている梓に容赦ない現実を突きつけることはできず、濃いオレンジ色の光が梓の白く柔らかな頬を照らし出すのを、見ていることしかできなかった。
「……あなた以外いらない」
 梓は小さく押し殺した声で叫んだ。ついさっき拭ったばかりの涙がはらはらとこぼれ落ちて、机の上に小さな水溜りをいくつも作った。わたしのオレンジ色に染まった柔らかな頬に手を添えた。梓は一瞬だけ驚いた顔をしてから、わたしの右手を固く握り込んでいた自身の両手を解くと、同じように頬に触れてきた。頬に梓の体温がじんわりと広がっていく。
 わたしは梓に気付かれないよう、ほんの少し唇を噛んだ。悲しくて虚しくて苦しくて、どうしようもなかった。いつの間にかひぐらしの声も、少女たちの笑い声も聞こえなくなっていた。夏の終わりの、夢のような時間だった。

 訪れる人間を牽制するような長く険しい坂の上に、梓の家は建っている。数百年前から続く名家だとか、戦前までは大地主で一帯の土地を支配していたのだとか、好奇心と妬みが混じり合った俗っぽい話を学生時代に何度も聞かされた。その話が耳に入るたび、梓は居心地が悪そうに俯いていた。
 急な坂を登りつめた先には、威圧感さえ携えた見上げるほど大きな門が聳え立っている。梓に招かれて初めてこの門の前に立った時、まるで堅固な牢獄のようだと思った。思い返せば失礼極まりないのだが、あの頃はこの家もその住人も、梓を逃すまいと躍起になっているようにしか見えなかった。門柱に設置されたインターフォンを押すと甘い声が聞こえてくる。
「葉月(はづき)、いらっしゃい。どうぞ上がって」
 声に従って門を潜ると、信じられないほど広い庭が姿を現す。左手には丁寧に手入れされた池が、右手には3台の高級車が停まっている。そのうち1台は見覚えのない車だった。立ち止まって池を覗いてみると、十数匹の錦鯉が悠々と泳いでいる。 初めてこの家を見た時、わたしは自分たちの未来が幸福に混じり合うことはないことを悟った。そうさせる力がこの家にはある。それに気付いていないのは、梓だけだった。     

 梓はわたしの手に大きなバッグがぶら下げられているのを見て、ふわりと微笑んだ。6年経っても、花の綻ぶような微笑み方は少しも変わらない。まるで彼女の周りだけ時間が止まっているように見えて、ついその顔を見つめてしまう。
「……なにか変かしら?」
「あ、ううん。お邪魔します」
 そう言って家に上がりこむと、梓は軽い足取りで歩き出した。長いスカートの裾が揺れ、細い足が覗く。それすらも品が良く見えて、思わず苦笑してしまう。愛屋烏に及ぶ、と言うけれどまさにその通りだ。
「お茶を淹れてくるわ、寛いでいてね」
 わたしを部屋に通すとすぐに、梓は台所へと向かった。その言葉に甘え、革張りのソファに腰を下ろす。抵抗をほとんど感じることなく、体が沈みこむ。あまりに座り心地がよくて、逆に疲れてしまいそうだった。
 梓の部屋に6年前の面影はない。高校時代はずいぶん広く感じられた部屋が、今は倍ほどに物が増えて手狭に感じられる。ぐるりと部屋を見回すと、勉強机はガラスのテーブルに、桜色だったカーテンとカーペットは落ち着いたアイボリーに変わっていた。
 ふと本棚に一枚の写真が飾ってあるのを見つけ、ソファから立ちあがる。貝殻で装飾された写真立ての中で、神経質そうな男と今よりも髪の短い梓が隣合って微笑んでいた。その男は梓より4、5歳年上に見える。一目見ただけで優秀なのだろうと思わせる、整った顔立ちをしていた。もしかしたらこの部屋の模様替えは、この男がアドバイスしたのかもしれない。
 ドアの開く音がして振り返ると、ティーカップを載せたお盆を手にした梓が、居心地の悪そうな愛想笑いを浮かべて立っていた。
「……今までね、夫の仕事の関係でちょっと日本を離れていたの。大学を卒業してすぐだったから、2年と半年くらいかしら」
「そうだったの?」
「ええ、帰ってきたのはつい先週よ」
 話しながら梓はソファに腰を下ろす。梓の後を追って部屋に入ってきた猫がその膝に飛び乗った。光を反射する見事な毛並みは随分と触り心地が良さそうで、近づいて手を伸ばしてみると低く唸られてしまった。
「人見知りでごめんね。夫の提案で飼った猫なの。私が帰ってくるときに一緒に連れてきたのよ」
「へえ、彼はどんな人なの?」
「昔からの知り合いよ……親同士が親しくて」
 梓は少し気まずそうに話し出した。その男は誰もが知る大企業の重役の息子で、最高学府を卒業しているらしい。語学に堪能な人物で、人柄も良いという。つまり家柄も能力も、申し分ない優良物件というわけだ。
「式は向こうで挙げたの。本当は葉月のこと、呼びたかったわ」
「気にしないで、多分行けなかったと思うから」
 梓は目を細めて寂しそうに笑い、膝の上に乗る猫の背を優しく撫でた。猫を撫でるほっそりとした手には、大ぶりのダイヤが輝く指輪が嵌められている。わたしの給料では3カ月どころでは間に合わない。年収でさえ怪しいものだ。
「……厳しいところもあるけど、優しい人よ。ちょっとだけ葉月に似てるかも」
「わたしはその人の半分も優秀じゃないけどね」
 わたしたちは顔を見合わせて笑う。それから梓は、はにかみながら彼との思い出を語ってくれた。

 なんて完璧な家庭だろう。
 彼と梓の話を聞きながら、泣いてしまいそうなほど安堵しているわたしがいた。いくつもの「当たり前」が、この部屋にはある。微笑む夫婦の写真、上品な服に身を包み誰もが羨む人妻へと変わった梓、梓の口から語られる欠点の見つからない夫の話。
 現実感のないものなどなにひとつ存在しない。この家では、全てのピースが正しくはめ込まれている。遠い昔牢獄と感じたこの家は、長い時を経ていつのまにか完璧な箱庭に変わっていた。
「帰ってきたら、あなたのことを思い出したの」
「だからいきなり電話してきたの?」
「ええ、そうよ。……電話番号が変わってなくてよかったわ。本当はもっと早く連絡したかったのだけど」
 梓は少しだけ非難の色が込もった瞳でわたしを見た。梓が怒っている理由はわかっている。わたしがあの教室での一件からあからさまに避けるような、敢えて疎遠になるような態度を取っていたからだ。梓に黙って、東京の大学を受験したことがその最たるものだった。
「……ごめん」
「……いいわ、許してあげる。私も子供みたいに駄々をこねたもの」
 言いながら、梓は耳たぶに触れた。それは照れた時にはいつもそうしていた。まだその癖は治っていないらしい。わたしはつい吹き出してしまった。梓は笑われた理由に気付いたようで、顔を赤らめながら膝で眠る猫の頭を撫でた。その誤魔化し方までも、昔と何も変わらない。
「ねえ、葉月の話も聞かせてちょうだい」
 大きな瞳は、悪戯っぽい好奇心に満ちていた。本当に、あの頃に戻ったみたいだ。飾り気なく笑う梓を前に、漸く緊張が解れてきた。わたしは東京では出版社に勤めていること、本当は小説の編集をしたかったのに何故か教科書の制作に携わっていること、それも今では楽しく思えてきたこと。そんな他愛のない話を聞かせた。たいして面白くもないだろうに、梓は身を乗り出して聞いている。
「それで、このあいだ上司に聞かされたんだけど。わたし、大学で教員資格をとってたから選ばれたんだって。こんなことならとらなきゃよかった」
「ふふ、そうかもね」
 梓は可笑しそうに笑っていたが、わたしは自分の失言に顔色を失っていた。大学の話なんて、聞かれるまではするつもりじゃなかった。黙って東京に出たことを問いただされることは覚悟の上だったけれど、それはもっとたくさんのことを話して、あの頃のように心を通わせてから。
 そこまで考えて、わたしは息を呑んだ。
「葉月? どうかした?」
「…………なんでもない」
「本当に、大丈夫?」
 心配そうに眉を下げる梓の背後には、大きな鏡台がある。そこに、情けなく歪んだわたしの顔が映っている。鏡の中のわたしはひどく幼い顔をしていた。本当に、あの頃に戻ったようだ。ぞっとして、縋るように梓の顔を見る。
「葉月……?」
 眉を寄せる梓は、年相応に落ち着いて見える。さっきまではたしかに、あの頃と変わらないように見えていた。わたしは俯いて、皮膚が裂けそうなほど強く拳を握り締めた。氷水を頭からかぶせられたように、体が芯から冷えていく。

 変わっていないのは、梓じゃない。

 重苦しい沈黙の中、ふと視線を感じて顔を上げる。写真の中にいる梓の夫が、責めるようにこちらを見ていた。微笑んでいたはずの彼が、わたしを睨んでいる。この家に紛れ込んだ異物を排除しようとしている。わたしはその写真から目が離せなかった。それに気付いた梓は、さっと立ち上がって写真を伏せた。
「そういえば、お土産があるのよ。持って来るわね」
 梓が気を利かせて部屋から出て行っても、わたしは伏せられた写真を見つめたまま動けなかった。梓がいなくなったソファの上で、黒い猫が唸り声をあげて目の前の侵入者を威嚇している。
「わかってるよ」
 わたしは力無く呟いた。なぜ、来てしまったのだろう。あの電話を聞いて、梓はなにも変わっていないと思っていた。本当はわたしが、そう思いたかっただけだ。どうしてあの誘いを断らなかったのだろう。梓と顔を合わせてあの頃に戻らない保証など、どこにもなかった。それがわかっていたから、幼い日の私は梓から離れたのに。それでも頷いてしまった理由なんて、考えたくもなかった。
「お待たせ。ねえ、どれがいいかしら」
 梓は何事もなかったかのように笑っている。その顔に、もう昔の面影は見つけられなかった。これ以上心配をかけるわけにもいかず、わたしは必死の思いで表情を取り繕った。結局その後も、梓はあの頃の話をすることもなければ、身勝手に距離を置いた理由を問いただすこともなかった。
 もう梓にとって、それらは全て美しいだけの思い出になったのだ。6年の歳月を簡単に踏み越えられた理由は、驚くほど呆気ないものだった。わたしはその日、まんじりともせず夜を明かした。人生で一番長く、冷ややかな夜だった。そして早朝のうちに、逃げるように部屋を出た。 
 ふらつきながら廊下を歩いていると、紫色の着物に身を包んだ老齢の女性に出くわした。学校の行事で何度か見たことがある。梓の母親だ。軽く会釈すると、値踏みするように目を細められた。たったそれだけのことで、心臓を鷲掴みにされたよな気分になる。
「娘とはずいぶん親しく……」
「あの、すみませんが」
 彼女の言葉を遮り、会社から呼び出しがあったと嘘を並べ立てて玄関に向かう。
 もう、ここにはいられない。この家はわたしをはっきりと拒絶している。息が苦しい。なぜこんなにも苦しいのか自分でもわからない。
 梓を守る完璧な箱庭を、ずっと欲していたはずなのに。

 新幹線の窓から、黄金色の朝日が差し込んでいる。腕時計を見て駅に着く時間を計算する。このぶんなら、駅で通勤ラッシュに巻き込まれることはないだろう。昨日から治まらない吐き気を誤魔化すために、鞄から音楽プレーヤーを取り出す。イヤホンを引き摺り出していると、無造作に仕舞いこんだ携帯が見えた。梓の家を出てから、ずっと電源を切っている。梓から電話がかかってくることは火を見るよりも明らかで、電話口の声が泣いていることもわかりきっていた。
 人生は、どうしようもないことで溢れている。生まれた時の性別も家柄も、自分では選べないし変えることもできない。両親に甘やかされて育つ子どもがいれば、厳しく躾けられる子どももいる。傍にいたくないのに
離れられないことも、傍にいたいのに離れなければならないことも。どうしようもないことは、そこかしこに転がっている。
 前の席で若い夫婦が夕食の相談を始めた。同棲中のカップルかもしれない。どちらもそう変わらないだろう。魚がいいな、と言う女に男は抗議の声をあげた。
 俺は肉が食べたい。
 じゃあそうしようか。
 女が子供じみた男の要求を笑うと、つられて男も笑い出した。その声が耳触りで、音楽のボリュームを上げてから意識を窓の外に投げ出した。まだ青い稲穂が夕日に照らされながら、風にそよいでいる。食い入るようにそれを見ていたが、やがて景色は平凡な街並みへと姿を変えてしまった。
 欲しくてたまらないものを諦めるには、長い時間をかける必要がある。欲しいものを遠くに置き捨てて、代わりになるものを見つけ没頭して、そして何年もかけて記憶の隅に追いやらなければならない。
 だからわたしは家を出た。わたしにとって6年という歳月は、棺を覆う重く冷たい泥土の代わりだった。どうしようもないことを追い続けても、傷つくばかりだから。そんなこと、とうの昔にわかっていたつもりだった。
 射し込んでくる夕日があまりにも眩しくて、乱暴にブラインドを下ろす。目の奥が痛い。一刻も早くあの無機質な部屋に帰って、眠ってしまいたい。あの部屋だけが、不確かなわたしの現在(いま)を支えてくれる命綱だった。

 聞き慣れた駅名がアナウンスされ、よろよろと席を立つ。一睡もしていないせいでガンガンと頭が痛んだ。アパートまで歩いていくのは億劫だけれど、タクシーを使う気分にはなれない。足を引き摺りながらアパートを目指す。目に映る人間も車も鳥もやけに綺麗に晴れた空もなにもかもが煩わしくて、自分の足元だけを見て歩いた。
 アパートに辿り着いた時には何キロも走らされた後のように息があがっていた。
 手摺に凭れながら階段を上る。バッグを漁って鍵を取り出し、ガチャガチャと乱雑に鍵穴を回した。ドアをあけると同時に荷物も靴も玄関に放り出し、這うようにしてベッドに向かう。倒れ込んだベッドはひやりとしていて、埃っぽかった。部屋は耳が痛むほどひっそりと静まり返っている。死んでいるように冷たい部屋は、今のわたしにはひどく心地よかった。

 縁側に腰かけ足先をさざ波に潜らせて遊んでいると、庭からトマトを抱えた梓が歩いてきた。梓が歩くたびざぶざぶと波が立つ。
「あら、」
 声をあげて梓はしゃがみこむ。なにかいいものを見つけたらしい。
「どうしたの?」
「見て、桜よ」
 梓は興奮に頬を上気させて駆けてくると、わたしの目の前で手を開いてみせた。そこには水の上にたゆたう桜の花びらがあった。薄い花びらをそっと摘みあげる。
「へえ、どこからきたんだろうね」
「わからないわ。でも、綺麗ね」
 うん、と頷いてから花びらを足元に落とす。淡い桃色のそれは音もなく水の上に落ちた。隣に腰かけた梓が何をしているのかと尋ねてくる。わたしはなにも言わず、足元を指差した。少しの間待っていると、さざ波が花びらを攫って行く。青い波間に薄桃色の花びらが踊りながら消えていくのを見て、梓は目を輝かせた。
「珍しいと言えば、こっちも珍しいよ」
 言って遠くの空を指差す。夏らしい厚い雲の間に、薄緑色の透明なカーテンが見える。梓は大きな目を見開いて、呆けたようにそれを見た。
「まだ昼なのに……」
「今日は珍しい事ばっかり。木星も見えるかな」
 空を見上げたまま一時も視線を逸らさない梓には、わたしの声は聞こえていないようだった。子どものように口を小さく開いている姿が可愛らしい。
わ たしは梓の横顔を眺めながら、ざるから赤く熟したトマトをひとつ取ってそのまま齧りついた。口の中に甘酸っぱさが広がっていく。サラダに入っている丁寧に切られたものより、丸ごとかじった方が美味しく感じるのはなぜだろう。わたしがそんなことに頭を悩ませている間も、梓は遠くの空を眺めていた。よく飽きないなあと感心したけれど、空を見ている梓の顎の曲線をじっと見つめている自分も大概だ。
「綺麗……」
「そうだね」
「でしょう?」
 梓は自慢げな顔をしながら肩に凭れかかってきた。わたしは梓の横顔を「綺麗」だと言ったのだけれど、梓はオーロラのことだと勘違いしたらしい。梓に促されて空を見上げると、オーロラは薄緑から水色へと姿を変えていくところだった。
「私はこの色が一番好きなの」
「桜色じゃなくて?」
「オーロラは別なの」
 よくわからないけれど、彼女なりにこだわりがあるらしい。わたしは凭れかかる梓の柔らかな髪を撫でながらなるほど、と頷いた。波の音に混じって、ひぐらしの鳴き声が聞こえてきた。緩やかに日が落ちていく。
「見て、葉月」
「ん?」
「木星も見えてきたわ」
 梓の視線を追うと、そこには夕暮れを背にした木星が見えた。
「もしかしたら、明日にでも世界が滅ぶのかもね」
「ふふ、なあに? いきなり」
「梓はそう思わない?」
 梓は真面目な顔をして黙り込んだ。わたしも黙って彼女の返事を待つ。黄昏の空にはオーロラが泳ぎ、月の何倍もある木星が浮かんでいる。庭に広がる水面は鏡のようにその光景を映し取っていた。
「……思わないわ」
 漸く口を開いた梓は、はっきりとした声でそう言った。予想外の力強さに面喰ってしまう。わたしたちの眼前には、ありえないほど美しい光景が広がっている。こんなものを見たら、誰もが終末を思い浮かべるだろう。少なくともわたしはそうだった。
「どうして?」
 ほとんど詰め寄るように問うと、梓は柔らかく微笑んだ。そしてすべてを慈しみ、愛するような眼差しを向けてくる。神様がいたらこんな顔をしているのかもしれない。そんな突拍子もないことを思わせるほど、その微笑みは美しかった。
「だって、こんなに幸せなんだもの」
「幸せ?」
「そうよ。あなたがいて、私がいて、こんなに穏やかな時間が流れている。 これが幸せじゃないなら、この世に幸せなことなんてないわ」
 そう言うと、梓は傷ひとつない白く小さな手でわたしの頬を包みこんだ。いつのまにかわたしの目にはいっぱいの涙が溜まっていた。悲しいことなんてなにもないのに不思議だった。わたしは嬉しいのだろうか。
「あなたは、幸せ?」
 わたしは梓の柔らかな頬に手を伸ばす。梓の輪郭はオーロラの光に滲んで溶け出していた。

 目を開けると、薄ぼんやりとした視界に見慣れた天井が見えた。鼻を啜りながらベッドサイドにあるティッシュに手を伸ばす。ひそやかな部屋に鼻をかむ下品な音が響き渡り、そのちぐはぐさが可笑しくて笑ってしまう。
「……っふ、」
 笑いながら、ほのかに梓の体温が残る頬に触れる。わたしより少しだけ低い体温は、遠い昔にあの教室で感じた体温とたしかに同じものだった。
 とても幸せで、どうしようもなく都合のいい夢だ。あんな世界がどこかにあるなら、わたしはなにもかも擲(なげう)ちそこを目指すだろう。けれど、梓から逃げ出したわたしは永遠にそこへは辿りつけない。まるで彷徨えるユダヤ人かのように。でも、わたしはそれで構わない。
「……幸せよ」
 あの教室でも、夢の中でも答えられなかった言葉を呟く。わたしはきっと、いつまでたっても過去を思い出にすることはできない。そして死ぬまで、あの教室を糧に彷徨いながら生きていくのだろう。それを不幸なことだとは、これっぽっちも思わなかった。
 わたしはもう二度と、梓には会わないだろう。きっと梓は泣いてしまう。でもその涙は彼女の夫が拭ってくれる。そうして梓はいつかわたしのことも美しい思い出にして、今まで通り完璧な日々を生きていくのだ。
 わたしはその光景を思い浮かべながら、再び深い眠りに落ちた。

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