音楽の伝承

 近年、1970年代後半から80年代初頭のシティポップが再評価されている。松原みきさんの1stシングル「真夜中のドア〜Stay With Me」がインドネシアの歌手・Rainychさんにカバーされたことにより、SpotifyやApple Musicなどのサブスクリプションサービスを中心として世界的に注目を浴びたのは記憶に新しい。

 日本でも80年代ブームが盛り上がりを見せている。SNSのムーブメント、テレビ番組での紹介など、一定のフェイズは消化され、過渡期に差し掛かりつつあるのは確かかもしれない。

 私自身も、2017年に荻野目洋子さんの「ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)」がダンス・パフォーマンスをきっかけに再ブレイクした辺りから、世間的な風向きも一気にバブル期やそれ以前の80年代に注目する雰囲気を感じ始めていた。そこから一周、少なく見積もって半周。

 今回の記事は分析記事ではなく、そんな80年代を中心とした日本ポピュラー音楽の伝承について考えたい。はじめにお断りしておくが、この記事は分析ではなくごく個人的なエッセイである。

 まず、考えてみたいのが「アドレス(address)」という単語。もちろんメールアドレスのことではない。1987年に発売されたTHE ALFEEのアルバム『U.K Breakfast』の1曲目「Far Away」を聴いていて気付いたのだが、これは当時を知る人と知らない人で捉え方や情緒感が変わる単語だ。1990年代のインターネットでも既に指摘されていて驚いたが、言葉の移り変わりと作品の捉えられ方の変化は避けられない宿命なのかもしれない。

 「スチュワーデス」から「キャビンアテンダント」のようなポリティカル・コレクトネスに基づいて改められた事例はよく認知されているものの、「アベック」から「カップル」のように時代と共に移り変わった言葉に関しては、どこから生まれた言葉なのかが今ひとつハッキリしないのだ。流行語にはわりとそういう傾向がある。正直、調査を行なっても仕方がない部分ではあるのだが……

 次に、歌詞の説明領域について考えたい。松本隆さんの歌詞が同世代の人たち(十代〜二十代)にも聴かれるようになり、単語の選び方や言葉の重ね方を評価する声を耳にすることが増えた。大滝詠一さんのアルバム『A LONG VACATION』は代表的な例だろう。

 現代の歌詞と80年代の歌詞で大きく違うのは、ひとつひとつの音に対しての言葉の扱い方である。吉田拓郎さんや井上陽水さんを代表とするフォークソングの台頭によって“字余り”が大衆に受容される(ここでの受容は主にチャート成績を指す)ようになってから、歌詞の在り方が大きく変容したのは多くの記事やリスナーが指摘している通りだ。

 私もこれに関しては同感で、50年代のムード歌謡や60年代のGSを聴いていると、ずいぶんと宙に浮いたり、欧文学を読んでいるかのような錯覚に至ったりするような作品が見られた。ジャッキー吉川とブルーコメッツの「ブルー・シャトウ」やオックスの「スワンの涙」、ザ・スパイダースの「あの時君は若かった」など……ありふれた状況を描く歌詞であっても、端的かつ詩を思わせる描き方が特徴だった。

 実は、よく日本語の歌詞でいわれる「日本語と英語がなぜ同居するのか?」問題は60年代の頃から存在していて、ここでは詳しくは触れないが、唱歌や民謡の影響を残した歌謡曲からの変化の過程を表しているようで、中々おもしろい。(GS自体は職業作家とバンドメンバーによる作品とが点在していて明確な分析は難しかったりする)

 そこから70年代に差し掛かり、諸要因で衰退したGSの流れを汲むバンドであったり、まっさらな状態から誕生したバンドであったり、岡林信康さんや吉田拓郎さんのようなシンガーソングライターたちが台頭してくるわけだが、一旦とはいえ、若者音楽の中心点が職業作家から表現者自身(バンドや自作自演のフォークシンガーたち)に移り変わったのは特筆すべき要素だろう。

 しかし、1969年から1971年の流行歌を見ると、やはり若者音楽の中の話であって、60年代からの傾向は1972年になるまで変わらないのだが……

 話を現代に帰すが、2010年代以降の流行歌にはいくつか条件がある。たとえば、イントロが短くなったこと。2017年の米オハイオ州立大学の研究では、1986年から2015年の30年間で78%もイントロが短くなったことがビルボードの年間ヒットチャートトップ10の分析から明らかになった。(詳しくは添付の記事を読んでほしい)

 これを日本の流行歌に当てはめて指摘することは出来ないが、ひとつの興味深い事例である。

 日本のポピュラー音楽において、1960年代から90年代までの40年間は変化と均衡が繰り返されていた。

 乱暴に括ってしまうと……歌謡曲からGSへ、GSからフォークへ。フォークからテクノ・シティポップへ、テクノ・シティポップからアイドル・ロックへ。

 世界的な流行に敏感かつ、曲先でつくることが多いとされる日本のポピュラー音楽の中で、時代や楽曲傾向に合わせた詩作りはある意味必然だったのではないか。「探偵ナイトスクープ」が端緒となったテレビ番組のテロップ増加、風のように目まぐるしく変化する流行語など、音楽作品としての移り変わりではなく、リスナーの求めるものに合わせた結果が現代の流行歌なのではないか。

 正直、分析でもなんでもないし、仮説に仮説でまとめるという暴挙でしかないのだが、そうとしか説明しようがない。

 作詞家や作り手が汲み取った時代の文脈、描きたいもの。これらと楽曲の方向性が一致した結果、歌詞の説明する範囲がどんどん拡大していった。かつ、きめ細かくなった。……というのが現状の説である。

 (歌詞の説明領域に関しては、秋元康さんの作品を80年代から10年代まで順番に聴いていくと理解しやすい。秋元さんのワークスは多くの場合、時代の中心かつ核心を描いているので、他の作詞家と比べるとパブリック・イメージ的なわかりやすさがあると私は考えている。)

 長くなってしまったが、最後に……

 1980年代が、あと10年で半世紀前になる。この事実を目にした時、一種の夢やノスタルジアを抱くのは必然だろう……と漠然と感じた。だが、それは歴史上の人物や時代への羨望に近いものがあるとも同時に感じていて、個人的にはあまりピンと来ない。

 わたし自身は、現代に生まれたことを非常に幸せだと捉えている。1980年代、ビートルズ、ベートーベン、バッハ。名音楽家と同じ時代を生き、新曲として名作を体験してみたい気持ちは理解できるし、頭の片隅にはあるが、それらを俯瞰できる現代の魅力もまた捨てがたい。何より、人は好きなものを楽しむために必ずしも生きているわけではないし、仮にタイムスリップしたとしてもそこできちんとした人生を送れるかというと、そんな自信はないからだ。

 音楽とは、絶えず変わる文化である。消える、増えるではなく、変わる文化。BTSの「Butter」や優里さんの「ドライフラワー」が数十年後にどんな評価を受けているか、捉え方をされているかなんてわからない。今ヒットしているが、いざマニア的視点で掘り下げる側に作品が立ったとき、どう料理されるかはとても興味深いところである。

 逆に言うと、今ヒットしなかった楽曲も、ちゃんと残しておくことでヒットの可能性があるということだ。学術的な視点、偶然によるクリエイターやリスナーの発見。形は様々でも、残すことが大事。

 携帯小説やウェブ文化でも度々指摘されているが、残れなかった文化の価値を正確に分析することは至難の業である。歴史認識において、これほどまでに揉めているのは解釈や視点の違いや国民感情によるものが大きいように、喪失されてしまった存在が巨大な影を落としている。だからこそ、残すことが大事。絶対的に必要だとされるのだ。

 〜年代の文化って、おもしろい。いいね!

 どんな世代も、自分たちの世代が歴史として語り継がれるようになった頃、このように語られることが理想だろう。ひょっとしたら、2000年生まれのわたしが80年代に強く関心を抱くのは、“歴史”として紐解いていける最初の10年間だからなのかもしれない。

【今回取り上げた楽曲たち】

 2021.6.16
 坂岡 優

最後までお読みいただき、ありがとうございました。 いただいたサポートは取材や創作活動に役立てていきますので、よろしくお願いいたします……!!