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ハバナの路地裏でくゆらせたシガーの煙は彼女の匂いがした【ゆったん】

 強い日差しが照り付けるキューバの大地。俺は広大な砂糖キビ畑を現地通訳の女性と一緒に視察して廻った。

 今年も順調に収穫できそうだという農家の主人に感謝の言葉を伝えて、俺達は四輪駆動車に揺られながらホテルにもどった。

 とりあえず一仕事を終えた。明日はハバナに来てから初めての休日だ。今夜はハバナの夜を存分に楽しもう。

 俺は通訳の女性のおすすめの店に行き、アロス・コン・カラマレスというイカ墨料理とエスカベシュという魚料理、それからワインを堪能した。食後のラム酒を楽しんだ後、店を出てから彼女が言った。

 「最近流行っているシガーのバーがあるので行ってみませんか」

 キューバといえば高級葉巻だ。俺は二つ返事で了解した。

 そのバーはホテルの近くの路地裏にあった。ホテルの前の道路を渡って、ぽつぽつと外灯がともる薄暗い路地裏をしばらく歩いた辺りに赤と青の看板が見えた。

 『Cigarros cubanos en Yuttan(ゆったんのシガー)』

 看板にはそう書かれていた。

 あれ、この看板どこかで見たような気がするけど、もしかしたら…。

 俺の予想が当たっていればいいのだが。そう思いながら通訳さんと一緒に店に入った。

 カウンター席の他にはテーブルが二つあるだけの小さな店だった。そして店内は労働者らしき男性客が多くてほぼ満席だった。

 「いらっしゃいませ。カウンター席にどうぞ」

 カウンターの中にいる女性が笑顔で俺達を招き入れた。

 やっぱり!俺は思わず声を上げた。

 男性客がみな驚いた顔で俺達のほうに振り向いた。

 カウンターの中の女性は三年前に姿を消したゆったんだった。

 日本からこんなに離れたカリブ海の小さな国にいたんだ。でも何故に?

 「ゆったん久しぶり!」

 俺が声をかけるとゆったんはあっ、といって驚いた顔をみせた。

 「コニシさん!わざわざキューバまで会いに来てくれたんですか?嬉しい!」

 あまりにもゆったんが嬉しそうな顔をするので俺はつい嘘をついた。

 「ハバナに素敵な日本人の店があると聞いてさ、ゆったんかなと思って来たんだよ」

 この程度のことは嘘とは言わない。ただの方便だ。ゆったんには出張でたまたま偶然なんだとは言いたくない。

 彼女は微笑んだ。その微笑みを見たら不屈の革命の闘士チェ・ゲバラですら銃を棄てるに違いないとの思わせるほどに穏やかで安らぎを感じさせるような微笑だった。

 俺達はカウンターの端のほうに座り、壁の黒板にチョークで書かれたメニューを見た。

 “ やっぱり一種類しかないのか ”

 壁の黒板に書かれたシガーはコイーバ・エスプレンディードスという二万円近い価格の最高級のシガーだった。

 シガーのことは何も知らないが、これにしようと決めて二人分のシガーを注文した。

 はいと答えながらゆったんが微笑んだ。

 ゆったんの微笑みをみたら、かの文豪アーネスト・ヘミングウェイでさえ日はまた昇るをも凌ぐ傑作をあっという間に書き上げたのではないか。それほどに魅力的な微笑だった。

 ゆったんが高級そうな木製の箱の中からうやうやしくシガーを取り出して、器用にシガーの先端をカッターで切り落とした。そしてシガーの先端をシガーライターであぶると、そのシガーを咥えて息を吐いて炎をふかした。

 ゆったんが息を吐いて炎をふかす度にシガーの先の葉が燃えてビターでまろやかな香りの煙がカウンター越しに漂う。炎が強くなったり弱くなったりするさまをみていると、次第に俺は催眠術をかけられているような気分になった。

 あっ、なんだよ、間接キスじゃないか!

 ゆったんが咥えていたシガーを手にとると俺に向かって言った。

 「コニシさん、あーんしてください」

 あーんしてくれたシガーにはゆったんの口紅の微かな跡とぬくもりが残っていた。

 隣に座っている客もゆったんが咥えたシガーを恍惚の表情を浮かべながら満足げにふかしている。彼の前の灰皿にはすでに吸い終えた二本のシガーが役目を終えた薪のように重なっていた。

 ついに俺もゆったんと間接キスまで辿り着いたか。俺はキューバに来て本当に良かったと思いながら、出張を命じてくれたパンダ部長に心の底から感謝した。 

 俺達は最上級のシガーをふかして四万円近い金を払った。ところが俺達がふかしたシガーは五千円ほどの中クラスのものだったということを知ったのは帰国してからのことだった。

 通訳女性の夫の愚痴を延々と聞きながらホテルに戻った。ベットに寝そべり大きく大の字になりながらぼんやりと天井を眺めた。

 やっぱりゆったんはふわっとした感じの可愛らしい人だと思った。日本で懲役刑を喰らって収監されていたようにはとてもみえなかった。

 その夜俺はゆったんに膝枕してもらいながらキューバ代表対侍ジャパンのテレビ中継をうとうとしながら観ている夢を見た。

 翌朝、ホテルの部屋の電話の鳴る音に起こされた。寝ぼけながらとった受話器の向こうから聞こえてきた声は、ゆったんの声だった。

 「コニシさん、お昼ご飯をご一緒しませんか?」

 海が見えるレストランで美味しいキューバ料理を長い時間をかけて楽しんだ後、ハバナの海岸沿いをゆったんと並んで歩いた。

 「アルゼンチンからうまく逃げだすことが出来てよかったな」

 「はい。でもベネズエラの山岳地帯で反政府ゲリラに捕まって殺されそうになったんです」

 ゆったん、俺は君が生きてここに居ることを神に感謝するよ。

 「男のひとと間接キスをするのってどんな感じ?」

 「普通ですよ。喜んでもらえるし、でもちょっとだけ恥ずかしいかな」

 ゆったんは胸を張ってそう答えた。その姿勢のせいで彼女の相変わらず貧相な胸がより一層貧相にみえたので、やっぱりこれからも胸を張るのはやめた方がいいよと忠告しようとしたが、言うだけ無駄だろうと思った。

 「チップをはずんでくれるお客さんもいますからね」

 ゆったんが悪い顔になってクスッと笑った。

 「お酒を置くつもりは無いの?」
 
 「きっとわたしが飲んじゃうから」

 俺はゆったんが酔ったらどうなるのか猛烈に知りたくなった。

 「それにしてもお店流行ってるよね」

 ふふふっとゆったんが微笑みながら言った。

 「きっとみんな女の子と間接キスしたかったんじゃないかな」

 そしてゆったんは微笑んだ。

 「だって、コニシさんもうれしかったでしょ」

 ぬけるような青空の下でゆったんがいたずらっぽく微笑んだ。ゆったんのやわらかくウェーブした茶色の髪が風に揺れた。

 この微笑みの前ではカリブ海で発生した大型ハリケーンですら猛威を振るうことなく弱々しい熱帯低気圧になって消え失せてしてしまうだろうとおもった。

 「コニシさん、明日空港まで見送りに行きますね」

 ゆったん俺、日本なんかに帰らずにこのままキューバに永住しちゃおうかな。

 あくる日、ゆったんは空港に現れなかった。

 まあ、こんなものさ。俺は背筋を伸ばして出国ゲートをくぐった。

 もうこの国には未練はない。そう自分に言い聞かせながら。

 帰国してパンダ部長と野村くんにキューバでゆったんに再会したことを伝えると、ふたりとも慌ててキューバ行きの航空チケットを予約しようとしたので慌てて止めた。ふたりともまるで競馬場のパドックで暴れている競走馬のように興奮していた。

 「それで、どうだった?」

 「インチキ臭いシガーバーをやっていましたよ」

 「どんなサービスだった?」

 「そんなの内緒ですよ」
 
 パンダ部長がオフィスビルが丸ごと揺れるほどの地団駄を踏んで、そのせいでエレベーターが停まってしまい、復旧するのに二時間もかかる羽目になった。

 ゆったんと別れてから一週間後、ゆったんのシガーバーが閉店したことをSNSで知った。

 じつはゆったんは偽造パスポートでキューバに入国していたのだ。ビザも不正に取得したものだった。ゆったんは一週間前にに逮捕されていて数週間拘留されたのちに日本に強制送還されるらしい。

 ゆったんがキューバから去ることを知った男たちが嘆き悲しんでゆったんの店の前にあつまり、その重みで道路が沈んで建物が傾いた。そのなかの一部が暴徒と化して警察が出動する騒ぎになった。

 俺はSNSにアップされた大暴れしている群衆と衝突する軍隊や燃え上がる自動車の画像を見ながら、ゆったんの人が良さそうにみえて、よくよく観察してみると海千山千の地面師のような鋭い目つきになることがある底のしれない笑顔を思い出した。

 そうか、あの日ゆったんが空港に姿を現さなかったのはそういうことだったのか。

 俺はオフィスの屋上のフェンスにもたれて街の景色を見下ろしながら、ゆったんが俺が咥えた後のシガーを顔を火照らせながら恥ずかしそうにあーんしている様子と、そしてゆったんがふかしているシガーの気持ちを想像した。

 雲ひとつない青空にゆったんの顔が浮かんだ。
 
 「ゆったん、は、はい、あ、あーん」

 「ふふふ。コニシさんの手がふるえてる」

 俺が火を点けたシガーをゆったんにも吸ってもらいたかったな。

 元気かな、ゆったん。今頃どこでなにをしているんだろう。まあ、そのうちいつかきっとまた会えるさ。

 今夜は野村を誘って久しぶりにキャバクラに行こう。

 定時になったらさっさと帰ろう。そう呟いて俺は屋上を後にした。


 ゆったんの店シリーズ全六作 完


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