プロの世界へ。

サガン鳥栖に加入する事ができた。

チームの始動日まで
ワクワク、ドキドキの連続。
それと同時に、凄く緊張していた。

まーでも、難しく考えても上手くいかん。

"自分に出来る事をしよう"

と頭の中は比較的シンプルだった。
ルーキーイヤーのJ2は51試合という、最多数の年だった。
しかも、サブのメンバーは今とは違い、5人という狭き門。(シーズン途中で7人になった)

まず最初の目標を
開幕戦のメンバー入りに設定した。

キャンプが始まり、とにかく練習はキツかった

岸野監督の色が全面に出てるチームであった。
毎日、毎日ヘロヘロでついていくのがやっとという感じ。

最初にチャンスがきたのは、第2節。
ホーム開幕戦の札幌戦。

サブに入った。

アップの時からのサポーターの熱量。
圧倒された。
震えたのを今でも覚えてる。

後半の残りわずかな時間にデビュー。
嬉しかったが何も残せなかった。

次の試合でスタメン出場、途中交代。
その後数試合メンバー入りはしたが…
パッとしなかった。

どうすればいいか、日々考えていた。

"どうすれば試合に出れるか"
"どうすれば監督が使いたいと思うか"

当時コーチであったユンさんに、毎日、毎日怒られた。
始動を受けては怒られの繰り返し。
それでも必死だった。

"プロになる"

これは確かに凄く難しい事なのかもしれない。
しかし実は…

"試合に出続ける"

これの方が難しいと、プロになって実感した。
尚更、そこで結果を残さないといけない。

"結果が全て"

岸野監督は、今振り返っても…
あの人以上の負けず嫌いの人間を自分は知らない。
"勝つ"
この重要性を嫌というほど叩き込まれた。
"フォア・ザ・チーム"
この精神もだ。
チームの為にプレーしろ、チームの為に走れ。
そういう監督だった。

もがく日々の中で、自分にとって、大きな出来事が起こる。

週中のトレーニングで、久しぶりのスタメン組でのトレーニング。
週末これはチャンスがくるかもと思い、ワクワクした。

そんな気持ちとは裏腹に、
その日の夜に、おかんから電話。

「徳島のおじいちゃんが亡くなった。」と

信じられなかった。
父方の祖父で、
いつも元気でパワフルなじぃちゃん。

なかなか会えなかったけど、
四国の試合を楽しみにしてくれてたのに。

電話で言われた言葉は
「帰ってこなくていい。あんたはサッカーしなさい。サッカー選手になった孫の事を嬉しそうに自慢してたんやから。」
と。

その日の散々泣いて、もう悲しむのをやめた。

じぃちゃんに誇ってもらえるように、たくさん自慢してもらえるようにしようと。。。

きっとじぃちゃんがくれたチャンスなのかも
とでさえ思った。

自分の中で、大きく変わった事があった。
それは、"覚悟" だった。

次の試合で活躍出来なければ終わり。
その試合で出来なければ、きっとこの先も無理だ。
腹をくくった。

2009年5月5日。
ホームでのザスパ草津戦で初ゴール。

目に見える結果を残した。

そこからはスタメン定着し、結果そのシーズン40試合出場した。

しかし、スタメン定着してからも、必死だった。
毎試合、毎試合、死ぬほど走った。

まずは走る。
攻守において走る。

他の人よりも、まず運動量で差をつけようと決めたからだ。
前半から飛ばして、後半キツくなってきたところでさらにギアを上げる。
それを毎試合意識していた。
するとキツい時間帯で、相手との差を出せるようになっていった。
その中で、自身の好きなプレーであるドリブルをたくさんした。
元々はドリブラー
(今からは想像もつかないが)

こうして終えたルーキーシーズン。
そのオフに1年で鳥栖を去ることになった。

いつか笑ってこの時の話が話せるようになったら自分の言葉で話したいなと思う。
今はまだその時期ではない。


チームの為にプレー。
自分の事よりチーム。
フォア・ザ・チーム。
岸野監督から教わったルーキーシーズン。
さらに、
プロとして、どう生きていくか。
何を大事にするのか。
自身のプレースタイル。
を自分なりに見つけたルーキーシーズン。

これが自身の根源となるものだ。
とこのときは思っていた。

後に、その根源を揺るがすような
出来事が起きるとも知らずに。。。


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