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「記者クラブ」とは、なにものか。

 主要な新聞社やテレビ局、通信社が会員となっている一般社団法人「日本新聞協会」。同協会は「記者クラブ」の定義を決定し、公表しています。

 ところが、これが時代とともに変遷しているのです。その理由は、記者クラブが時代に合わないものと批判されると、記者クラブの定義を変更して批判をかわしてきたからです。

 拙著『裁判所が考える「報道の自由」 判例 第1次記者クラブ訴訟』(インシデンツ)に「記者クラブの定義の変遷」というセクションがあります。これを読むと、日本新聞協会、そして、裁判所が記者クラブ制度を維持するために、なりふりかまわない挙に出ていることがわかります。

 以下、転載しますので、ご一読ください。上記の拙著を通読していただければ、さらに理解が深まります。

記者クラブの定義の変遷

 2000年10月5日、東京地裁(大坪丘裁判長)は原告の私の請求を棄却する判決を言い渡した。大坪裁判長は、最高裁勤務が長く、出世が望める立場。ここで、身内の松山地裁の不法行為を認定し、さざ波を立てる気は毛頭なかったであろう。それにしても、「先に結論ありき」の判決の典型だった。

 民事訴訟法(民訴法)では、「公知の事実」(広く知られた事実)は、原告や被告が証拠を提出して証明する必要はなく、裁判所も判断の前提にしてかまわないとされる。たとえば、「2月14日は『バレンタインデー』と呼ばれ、女性から男性にチョコレートを贈る習慣がある」というようなものだ。

 東京地裁は、以下が「公知の事実」であるとする。

〈記者クラブとは、公的機関などを取材対象とする報道機関に所属し、その編集責任者の承認を得て派遣された記者によって構成される組織であり、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする取材拠点として、機能的な取材、報道活動を可能にし、国民にニュースを的確迅速に伝えることを目的とするものであって、これまで我が国の報道の分野で一定の役割を果たしてきた〉

 本書の冒頭で、私はジャーナリスト活動を開始し、初めて記者クラブのことを知ったと書いた。一般人は記者クラブの存在すら知らないか、知っていたとしても、「新聞社やテレビ局の団体」程度の認識だ。上記の文章の内容を「公知の事実」とするのは無理がありすぎる。

 とはいえ、東京地裁がゼロから「公知の事実」をつくりあげられるわけではない。上記の文章は文体からして、どこかから引用してきたものだ。しかし、原告、被告双方が国賠訴訟へ提出している文書や証拠資料には、同様の文章は見あたらない。では、東京地裁は、どこから文章を引用してきたのか。

 正解は「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」(以下、「見解」)である。「日本新聞協会」は、日本の主要な新聞社やテレビ局、通信社を会員とする一般社団法人。以下が「見解」の原文だ。

〈記者クラブは、公的機関などを取材対象とする報道機関に所属し、その編集責任者の承認を得て派遣された記者によって構成される組織である。公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材拠点」として、機能的な取材・報道活動を可能にし、国民にニュースを的確、迅速に伝えることを目的とする〉

 東京地裁判決の文章と「見解」の原文を見比べてもらいたい。東京地裁は、原文のあとに「これまで我が国の報道の分野で一定の役割を果たしてきた」という文言を書き加えて、「公知の事実」としている。「見解」自体が記者クラブを肯定するものだが、さらに肯定的な評価をつけ加えたわけである。

 東京地裁の意図は明白だ。あらかじめ記者クラブの評価を高くしておかないと、「記者クラブへのみ判決要旨を交付することは合憲」という結論に持っていきづらくなるからである。

 一方、原告は記者クラブを否定する主張、立証を行っている。証拠資料から引用する。

〈記者クラブ制度については、以前よりその閉鎖性・排他性・情報源との癒着等が世論の批判の対象となっております。今回の松山地裁の措置は、そのような記者クラブ制度の弊害を温存し助長するものといわざるを得ません〉(原告の陳述書)

〈記者クラブは懇親会的な有志の集まりという建て前をとりながら、実はクラブ所属の大メディアグループが情報を独占する仕組みになっている、といっても過言ではない。現在の記者クラブは一部のマスメディアだけが取材の自由を享受するシステムである〉(元共同通信編集主幹の原寿雄氏の著書『新聞記者の処世術』)

 ところが、東京地裁は、記者クラブに対する否定的な評価について、判決で一切言及していない。それどころか、原告が記者クラブを否定する主張、立証を行ったことすら判決に記載していない。文字どおり、「なかったこと」にしたのだ。

 ところで、原氏の著書の記述に「記者クラブは懇親会的な有志の集まり」とある。これは、「見解」が説明する記者クラブの定義とは異なる。どうして、このような食い違いが生じているのか。

 日本新聞協会は、1949年10月に「記者クラブに関する新聞協会の方針」を決定し、以下のように記者クラブを定義した。

〈記者クラブは各公共機関に配属された記者の有志が相集まり、親睦社交を目的として組織するものとし、取材上の問題には一切関与せぬこととする〉

 記者クラブは、1890年(明治23年)、帝国議会が開設されたとき、それを取材する記者らで結成したのが最初とされる。以後、役所などでも記者クラブがつくられていく。記者クラブは取材・報道のための組織であり、上記の定義は実態と異なる。しかし、「親睦団体」と定義しておけば、新聞社やテレビ局、通信社以外のメディアやジャーナリストを排除しやすい。「そちらとは親睦をはかりたくない」と言えばいいからだ。

 1978年10月、日本新聞協会は「近年、情報メディアが著しく多様化し、報道界を取り巻く環境が変容の度を深めているところから、従来の方針、統一解釈のみでは、クラブ運営の基準として十分な実効を期しえない状況も生じているかにおもわれる」として、「見解」を決定する。ただし、記者クラブの定義は以下のとおりで、東京地裁が判決で引用しているものとは異なる。

〈記者クラブは各公共機関を取材する報道各社の有志が、所属各社の編集責任者の承認を得て組織するもので、その目的はこれを構成する記者が、日常の取材活動を通じて相互の啓発と親睦をはかることにある。記者クラブは取材記者の組織であることから、取材活動の円滑化をはかるため、若干の調整的役割を果たすことが認められる。ただし、この調整機能が拡大もしくは乱用されることのないよう厳に注意すべきである〉

 原氏の著書が発行されたのは1987年11月。上記の定義を前提に、「記者クラブは懇親会的な有志の集まりという建て前をとりながら、実はクラブ所属の大メディアグループが情報を独占する仕組みになっている」などと批判しているわけだ。

 1990年代、「『親睦団体』でしかない記者クラブが庁舎内の部屋を専有しているのは、税金で建設、維持管理されている建物の使い方として不公正」という批判が強くなる。1996年4月、鎌倉市(竹内謙市長=元朝日新聞編集委員)は庁舎内に「広報メディアセンター」を新設し、記者クラブ加盟社もそれ以外のメディアも平等に利用できるようにした。同様の批判にさらされている全国の地方公共団体から問い合わせが相次ぐ。

「庁舎内の部屋を専有する」のは記者クラブ最大の利権だ。日本新聞協会は、鎌倉市の方式が全国へ波及することを恐れて対応を練る。そして、1997年12月、「これまで数次にわたって『記者クラブ』に関する方針・統一解釈を示してきたが、ここに新たな『見解』をとりまとめた」として公表する。戦後半世紀、記者クラブを「親睦団体」と定義してきたが、「取材拠点」と定義しなおしたのである。

 この定義を「公知の事実」とし、判決に引用したのが東京地裁。定義が変更されてから、わずか2年10カ月しか経っていない。「公知の事実」とは、こんな短期間で確立するものなのだろうか。

 しかも、判決の1年3カ月後、日本新聞協会は、再度、新たな「見解」をとりまとめる。記者クラブを「取材拠点」と定義する1997年12月の「見解」に対し、日本新聞協会の内外から「記者クラブの本来の意味は『組織』で、『場所』ではない」という批判が噴出したからだ。また、後述のように、2001年5月15日、田中康夫長野県知事(作家)が「『脱・記者クラブ』宣言」を発表し、「場所」の意味の記者クラブばかりではなく、「組織」の意味の記者クラブも存続が危うくなってきたという事情もある。

 その2002年1月の「見解」では、以下のように記者クラブを定義している。

〈記者クラブは、公的機関などを継続的に取材するジャーナリストたちによって構成される「取材・報道のための自主的な組織」です〉

 結局、東京地裁が判決で「公知の事実」としている記者クラブの定義は、わずか4年間しか世の中に存在しない特異なものだった。

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