短編「つけまつげ」

ああ、ここですか?
ええ、空いていますよ。どうぞ。
あ、あぁ、あああ、
あ、いや、すみません、すみません。
あなた、あなたにびっくりしたわけではないのです。
いや、あなたを見て先日遭遇した不思議な出来事を思い出してしまいまして。
よかったら聞いていただけますか?
ありがとう、ではぜひ私に一杯ご馳走させてください。
店員さん、こちらに生ビールひとつ。
……
では乾杯!
それで話というのは、先日、私が電車で遭遇した出来事のことです。
電車に揺られる私の目の前に、3人の女性が座っていました。
3人共缶酎ハイを手にして、飲みながら結構大きな声で話していたのです。
観光列車でもないのに電車の中でお酒を飲むなんて、と思っていました。
注意しなかったのかって?
ええ、確かに、はしたないとは思いましたよ。
でもそれほど迷惑でもなかったので、誰も注意はしなかったのです。
私もね。
3人とも目が、ことのほかパッチリしていたんです。
それでね、どうしても気になって、彼女たちの目に見入ってしまったのですが、3人とも、とても長いつけまつげをしていることに気がついたのです。
なんか舞台衣装のようなツケまつげだなぁと、いや、本当に長く見えたのです。
そんな感じでその女性たちのことをチラチラ見ていたんですがね。
ふと気がつくとそのうちの一人が私を見ているのに気がついたのです。
その女性は、僕と目が会った後、他の娘たちと一言二言話をしてから、また僕の方に向き直したんです。
えっ、そんなのはよくある話だろうって?
そうですね。ここまではね。本題はここからなのです。
聞いてもらえ……よかった、では、続きを話しますね。
その女性が僕の方を向いたときです。
まあ、向かい合わせに座っていましたから、彼女は普通に正面を向いただけです。
当然と言えば当然なのです。
そのとき彼女が僕に何か話しかけてきたのです。
えっ、なんで?って思って、返事できずにいたのですが、何か様子がおかしいことに気づきましてね。
いや、確かに話かけられていたのですけど、周りの方は誰も気に留めていなかったのです。彼女と一緒にいた他の女性たちもね。
おかしいでしょ?
それで、声のする方をじっと見ると、声の主がわかりました。彼女のつけまつげだったのです。
つけまつげが話すわけがないって?
ええ、そう思いますよね。私もそう思いましたよ。でもね確かにそのつけまつげが私に話しかけてきたのです。
「そこのあなた、なにを怪訝そうに見ていらっしゃるの?」
その声は思いのほか丁寧に問いかけてきたのです。
「いや、なんとなく見てただけで他意はありません」私も丁寧に答えたのです。
「なんとなくでそんなにみるものですか?あなたは何かを見つめるときになんの考えも持たないと言うのですか?もしそうならあなたは思考を停止した状態でものを見つめるという人にあるまじき行動をとる存在だということになるのですが、そういうことでいらっしゃるの?」
つけまつげがそう言うのです。なんか腹立ってきて、だってそうでしょ?
なんでつけまつげにこんなこと、つけまつげだって人じゃないですよね?
人じゃないのに人にあるまじきってってって……すみません。少し興奮してしまいました。
そのときも「僕はつけまつげだけ見ていたのではない。缶チューハイを飲んで話している女性たちを見ていたのだ」って、つい声を荒げて言ってしまったのです。
すると、つけまつげは、「またそうやって大きな声を出せばいいと思っていません?大きな声で相手を威嚇するのは自分の論旨に自信のない証拠ですわ。なんという情けない方なのでしょう!」って、鼻もないくせして鼻から抜ける声で哀れみタップリに言いやがったのです。
うざい、まさかつけまつげにうざがらみされるとは、もう容赦しない、世界からつけまつげを無くしてやる、全てのつけまつげを買い占めて燃やしてるからな、そう言ってやろうと思ったとき駅に着いたのです。
蒲田、かぁまぁたぁ、と車内アナウンスが聞こえ、彼女たちは降りて行ったのです。
ええ、やれやれ、これでつけまつげから解放される。そう思いました。
でもね、ため息をついたその後に、「解放されたと思っていらっしゃるの?」と声が聞こえてきのです。
横からでした。となりに座っている女性のつけまつげが話していたのです。
もう、ほんとにね。思いましたよ。だってそうでしょ?まさかこんなにつけまつげに付け回される日が来るなんて想像できないじゃありませんか?
ここは無難にやり過ごすべきだと思いましてね「いえいえ、お綺麗な方がいなくなり寂しいと思っていたのです」とさも残念そうに言ったのです。
「あら、お世辞がお上手なのね」とそのつけまつげは弾む声で言ったのです。

そうこうしていると、私の降りる駅についたので「僕はここで降ります」と丁寧に言って私は電車を降りたのです。
それが私が電車で遭遇した不思議な出来事なのですがね。
え、面白い冗談ですって?
冗談なんかじゃありませんよ。
大真面目な話なのです。あなたには信じてもらえると思う話なのです。
なぜかって?あなたが入ってきた時からずっと私に「元気かって」話しかけてきているからですよ。
あなたは話していないって?
そうですね、話しているのは、あなたのつけているそのカツラですからね。
ー了ー

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