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東京バーレスクへ行って思ったこと 3/4

どうしても、美的価値という探求を諦めきれないでいた。その時に、好機のような形で舞い込んできたのが、友達が東京で楽しいところへ行こうという誘いで、バーレスク東京へ赴いた。
私は、二つの目的を持って、行ったのである。
それは、性的欲求の耽溺や人肌への寂寥の紛らせでもない。
美的価値の愛求と劣等感への克服と自己改造である。劣等感は何なのか。私はずっと考えてきた。それは人格形成における歪みである。誰もが、抱える負の観念である。また、真実への接触を恐れるが故に、そのものへの直視を拒む。私が負った劣等は、女性への距離感の掴み辛さである。とにかく、彼女らは、出来るだけ遠回りする。その弱点を哲学は見抜いてしまう。女性的価値観を見直すにあたって、キャバレーやキャバクラは、好都合だった。
私は、嬢達と談笑やポールダンスや踊りを見ているとあることに気づいた。
周囲はカメラを構えたり、写真や動画を撮っているのだ。
言葉を超越したものは、写真を見たほうが早いが、想像は萎んで、そこにある事実だけを見る。読書離れが増長する一つの理由であると思う。
ポールダンスの美しさと手や足の先の細微を、交わした一言々の楽しさを文で表現してみる。

ショーが始まる前に1時間ほど、嬢たちの会話があった。私は、女性との会話がとにかく不得手であり、克服するには、実践を積むことしかなかった。
五里霧中なので、ある種のナンパ的な意図を含ませて、一つの芸術を完成させる気概を以て挑んだ。あんまりにも面白かったので、持ってきたお金は、チップと酒に散財した。
ちょっとだけその距離感の掴み方は、わかった。会話とは、妥協である。蛇足や面白味がなくても、とにかく堪えることである。私は、今までの自分をゆっくりと省察していくと、我が儘な自己自身が浮かび上がってきた。人前では、それを巧く隠す人間が器用な生き方ができる。
正直な人は、優柔不断な者たちへの灯火的存在となって祭り上げられる現象がよく起こってる。
私は、明晰や怜悧に憧れている。だから、違う形で、敬意を払ってる人々を祭り上げる。それが現代でいう推ししか勝たん、というのではないか。そのうち彼女ができたら、『彼女しか勝たん!』と言ってみたいものだ。


ポールダンスは、ダンディズムとエロティシズムの奇跡的融合である。無駄のない肉体が巧くポールに吸い付いて調和を成している。
そして、洗練という言葉が私を取り憑かせる。この観念に人々は魅了された。そして、古典というある観念が合致した。それは、洗練された文章や構成と反駁を許さない絶対的真実を伝えようとする熱意。
私は、踊りが出来ないので、どれほどの技巧であるかはわからないが、歌舞伎や能でも手先の重要さは、ひどく感じ取った。そして、この芸術を見る楽しさとは、考えることにある。
ポールダンスが、ただ性的欲求に溢れているならば、大した魅力も感じなかったし、わざわざ赴くこともなかっただろう。一年前に見たストリップバーと似ていた。

問題は、その二つの目的が達成されたか否かであろう。克服の方は、不完全燃焼気味である。なんとなくわかったので、とにかく経験を積むだけである。美的価値の愛求は、古典を読んでいる時以上に感動を与えてくれないため、こう言う場では、とにかく芸術を芸術として感じることが大切になってくる。
現実は、僥倖のように一朝一夕で変わらない。残酷な事実を突き付けるし、いつもの伴侶は、魂(精神)と肉体である。それだけを背負って、これからも生きていく。

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