なぜか不自由だ!、とか言った方がエモいとしても
表現の自由は手続き的正義だ。
みたいなことを書こうと思ってたら、橋下徹が同じ文言を使っているのを見てしまって(この記事)うんざりして、もう書くのやめようかなと思ったけど、やる気を振り絞って殴り書きしておく。
「表現できない」こと自体を表現することはできない。なぜなら、表現してしまえばそれはもう「表現できない」ことではないから。なので現実的には、「表現できなかったこともある」表現をいくつかピックアップして並べることになる。
しかし、表現できなかった表現は山のようにある。その中からどれを選んだとしても「なぜこれを選ばずそれを選んだのか」みたいな難癖が付いて回ることになる。それは当然だ。「何を表現するのか」ではなく「何を表現しないのか」ということを問う表現なのだから、逆にその表現自体が「何を表現しないのか」をつい問うてしまうのは、挨拶されれば挨拶を返すくらいに自然なことだ。その辺の論点に関しては、例えばこの記事とかに4分の1くらいは共感した。
そんなわけで、「バランスが取れていない」的なアドバイスはとてもよくわかる。でも、その方向はどこまで行っても「なぜこれを選ばずそれを選んだのか」みたいな難癖の付け合いにしかならない。「それはバランスが取れていない」「いやいやそっちこそバランスが取れていない」という喧々諤々としたディベートで社会は前進していくわけで、議論は大事だ。大事だけど、気が付くとあなたの盤面はいまや退屈な千日手に持ち込まれてしまっていて、こんなはずじゃなかった、と思いませんか?
うっかり内容についての議論に深入りしてしまうと、そういう無限ループが待っている。なので、空気を読んではいけない。偏っていようが何だろうが淡々と表現の自由を行使すればいい。「表現の自由は憲法で保障された権利なのだ、バーン!」とか狂人のように突然叫んで表現すればいい。世間から見れば狂っていようが、それはあなたの表現の自由には何も関係がない。
もちろん、現実は過酷だ。空気を読まない表現は様々な「強烈なリアクション」が浴びせかけられる。とりわけ公的な場では空気が濃い。空気を単に無視するのは、宇宙飛行士が全裸で大気圏に突入していくみたいなもので、摩擦で燃え尽きることになる。空気を読まないためには、戦略が必要だ。技術が必要だ。必要だった、はずなのに。
なにも新しい自由を勝ち取ろうとしているのではない。表現の自由はすでに憲法で保障されている。なのに、自由に表現しようとするとなぜか困難が付きまとう。そこに必要なのは、「なぜか」を突っ切る突破力だ。当たり前の自由を当たり前にこなす、圧倒的な事務力だ。
「なぜか不自由だ!」というパフォーマンスはエモいけれど、それだけに落ち着いてしまえば「自由など存在しない」と言い立てる空気の片棒を担ぐことになる。今回はまさにそれで、最悪の展開、というほかない。
負けてはいけなかった。勝っても誰も褒めてくれないとしても。そういう苦しい戦いがこれからも続くだろう。
(カバー画像:https://flic.kr/p/ouq3Pa)
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