「ふれたきもの、ふれがたきもの」(興梠みさ子句集「海からの風」を読む)

まだ暑さの残る十月初旬、一冊の句集が届いた。興梠みさ子の第一句集「海からの風」だ。彼女と面識は無いが、以前からぼくが属しているネット俳句会の中で良い句を詠まれている印象を持っていた。この度晴れて句集を刊行され、ご好意から献呈してくださる事となった。この場を借りて感謝申し上げる。

秋の空を思わせる薄青い表紙はあくまで麗しい。持って軽い本だが、著者と発行者の矜持を感じられるしっかりとした作りに好感が持てる。本の地は均一であるが、天は波打つように不揃いに裁断されている事に製作者の密やかな意図を感じなくもない。
さて、さっそく開いてみる。

ところてん琉球硝子の泡いくつ
いなつるび母は乳房をみどりごに
青白き月の鱗を拾ふ路地
伝へたき言の葉ありて取るマスク
寒昴死者も生者も眠らせて
母寝まるかたちの薔薇の毛布かな
駄菓子屋の奥まで至る冬日かな
管とれし朝菜の花の蝶と化す

海からの風を孕みて枇杷熟るる

公害で病んだ川で育ったぼくにとって「海からの風」は重たい悪臭を運び込む忌わしいものというイメージがこびりついている。当時の東京湾は欲望の残滓の最終到達点であり、そこからの風は絶望に近い無力感と咳を伴う、なにか禍々しいものであった。読めば作者は九州の方のようだ。かの地も人の手による苦海が存在している事を知っているが、作者の持つ海の風のイメージにどこかホッとさせられた。

フクシマの桃の憤怒のごとき種

ぼくは福島を「フクシマ」と書くことを好かない。それは広島忌や長崎忌やヒロシマやナガサキなど特別の記号とする事で今も生きているこの土地を固形化する事に強い違和感を覚えるからだ。しかし掲句の「憤怒のごとき種」という描写力と、女性に内包される地核のような憤怒を表す見事な措辞をもって選句の理由とした。

ふれたきは空の碧さの薄氷

先日、作者が持病の為に入院されている事を知った。それも難治性の希少癌であり、治療法も確立されず余命を数えるばかりであるという。そればかりではないがぼくはこの句に歌人河野裕子の「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 」を重ねてやまない。癌の病床にある河野の言葉を夫である永田和宏が書き留めたと言われる辞世歌である。触れたくても届かないものは世の中に多くある。不治の病を得て始めて見える境地なのかもしれないとふと、思う。

この句集は作者の抒情小曲集である。作者の予断を許さぬ病状を知る今、季を分け平坦な序曲から豊かにクレッシェンドし、やがてデクレッシェンドしてゆく様は美しく、ピアニッシモも油断なく鳴らし、鈍く輝きながらも終止線へ向かうさまに感動を覚える。表紙に添えられた枇杷の実の線描は例えは悪いが視野を横切る飛蚊のようにこの世と異界の淡いに存在するあやかしのような印象を持つ。彼女の見ている海からの風はそれら許されざる者をも包み込むよう柔らかく、そして優しい。

最後に重篤であろう病状を押して、句集を編み、結晶させた作者の意思に敬意を表したい。この本は筆者の美しく大きな翼である。興梠みさ子はこの翼で羽ばたくのだ。この場に接することが出来て光栄である。心より感謝申し上げる。

叶裕

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