スープ一つ温めて飲むのにも運は要る

 という話をしようと思います。たかだか、鍋にスープ入れて火つけてコトコト煮立ててお椀に注いだら終わり、という日常的に簡単にできることでさえも、運がないと(悪運に見舞われると)できません、ということが今朝起こりました。

 私は冷蔵庫の中に、先日作った残りのスープをどんぶりに入れて保存してました。今朝、それを温めて食べようとして、鍋にスープを投入し、どんぶりはキッチン台に置いておき、温まったスープをそのどんぶりに入れて飲もうとしていました。

 姉はこれから出かけるので、洗面所におり、せかせかと洗顔などをしています。台所は私一人の「はず」でした。

 スープを入れた鍋を火にかけ、どんぶりをキッチン台に置いたまま、ちょっと自分の部屋へ、チンしたおにぎりを持っていきました。火をかけているので、すぐキッチンに戻ってくると、そのどんぶりが消えてました。見ると、流しに。姉が「ああ、これから食べるのか。もう要らないと思って流しに下げた」と。

 まずここで、姉による邪魔その1が入りました。なんで洗面台でいそいそしてるのにキッチンに来てついで仕事、しかも私がこれからスープを注ごうとしているどんぶりを下げるのだ、と。

 仕方ないので、別のどんぶりを出して、同じキッチン台に置いてスープを煮ていました。コトコト煮えて、「もうそろそろかな」という時に、姉による邪魔その2が入りました。

 私がスープを煮ている周囲で「何か臭い」と言い始め、キッチンに来てクンクンし出しました。この人は洗顔に集中せねばならないのに、なんでわざわざ出かける直前で私がいるキッチンに来て嗅ぎまわるんだ、と。私はどんぶりを片付けられた上、「なんでこのタイミングで色々チョッカイだしてくるんだ」と苛立ってきました。

 キッチン台には、私が置いたどんぶりと、その横に水が浸されたフライパンがありました。姉が作った何かをビーカーのような容器に入れ、フライパンの水にその容器ごと浸して食材を冷ましていました。ここで、決定的な邪魔その3が入ります。

 一度洗面所に行って、また姉がキッチンに来て、その容器を水の浸ったフライパンから取り出しました。そして、水切りの為に、流しにそれを持っていくのですが、その経路に私が準備していたどんぶりがありました。何が起きたかわかりますよね。その容器から滴ったみずが、私のどんぶりにぽたぽた、と。

 正直、ぶち切れました。姉がキッチンにいない洗顔をしている時を見計らってスープを温めようとしたのに、

  • わざわざ洗面所から来て私のどんぶりを流しに下げた

  • 私がスープを温めているところを嗅ぎまわりだした

  • 最後はまたどんぶりに水をぽたぽた垂らし妨害した

 あまりにもぶち切れたので、スープはもう不要!と流しの三角コーナーにぶちまけ、用意していたどんぶりを流しにぶん投げ怒号を発しました。「俺はスープ一つ温めて飲むことすら運がいるのか(邪魔が入るのか)!」と。

 自由意志や運について語る際、日常の何気ない動作を例に出すことがあります。その動作一つとっても、このように、環境や外部からの邪魔によって阻止されることがあるのです。

 「努力すれば結果が出る」という方、残念ながらそれは、その努力を阻害する外部要因がなかった、という要素が必要な話であって、努力したって邪魔が入れば結果なんて出ないんですよ。いい加減自己責任論や自助努力論信奉するの卒業してくれ。運がないとスープ一つ温めて飲むことすらできないんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?