太陽信仰と日本人

「日出づる国」とまで申しますから、わが国は実に太陽と関わりの深い国です。それは、我が国の皇室の遠祖が太陽信仰の至上神、天照大神であることからも、よく窺われます。アフリカで人類が誕生し、人類は西へその生活領域を展開するばかりか、東へ東へと展開する状況は何に起因するのでしょうか。それは、おそらく太陽の遥か東の果てに光放ち、すべての生命を寛大さで包み込むその姿に、憧れと尊さを抱き、大昔に地球が丸いなどと思うすべもありませんから、太陽に少しでも近づきたい、その思いこそが人類の東へと流れた原動力であると思います。
 「日の本」は、始めは中国に対しての呼称でした。太陽に最も近いところは、この頃までは中国ぎりであったからです。それが、太陽信仰を原動力とした人間の東方移動に伴って「日の本」は朝鮮に宛がわれるようになります。
 因みに、朝鮮の開国神話に「檀君神話」があります。その内容は、天上界に桓雄(ファヌン)という地上世界に憧れる神がおり、その思いは何時しか桓雄の父・桓因(ファンイン)の心にも通じました。そして、桓雄は太伯山(テペクサン/白頭山がこれに対応する等の説あり)山頂の神檀樹(シンタンス)に降臨します。桓雄のもとに虎と熊が訪ね、人間に成りたいと願い出ます。そこで桓雄は、洞窟に100日間籠ることができた者が人間になれると言いました。虎はこれに成れず、熊は熊女(ウンニョ)となって桓雄と婚して、その間に生まれたのが檀君で朝鮮民族の祖となる、というものです。この神話は、多く日本神話と共通する点があります。まず天孫降臨は、高千穂の槵触峯に天照大神の孫にあたる二二ギが降り立ってこれが皇室の遠祖となる、というものですが、神様が天上界から山の頂上に降臨するという点が実によく似ています。
 さらに、動物を民族始祖としているという点は、インディアンの一部族・オブジワ族の間に見られるトーテム信仰が窺われ、また日本神話でも民俗学者の折口信夫が『妣が国へ・常世へ 異教意識の起状』のなかで、二二ギ(皇室の遠祖)とコノハナサクヤ(植物の女神)、ホオリノミコト(皇室の遠祖)とトヨタマビメ(出産で「八尋の鰐」に化している)から、族霊崇拝(トーテミズム)の面影がちらついていると指摘しています。

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※Wikipedia
朝鮮民族の始祖とされる檀君。檀君神話は朝鮮半島では史実と位置付けられ、国定の教科書にも記載されている。 
 

 とにかく、朝鮮民族の間にも太陽信仰はよく認められ、今でも朝鮮の老人は白衣を好んで着るという風習は、太陽の明るい“白”に対しての憧れと深く結びついています。先述の白頭山も同様です。
 現在の日本に深く根付いている太陽信仰の原型は、源流をたどると朝鮮にあるかもしれません。そうはいっても、大陸系帰化人の日本列島渡来以前にも、太陽に対する信仰は行われていたと思います。具体的一例を挙げるならば、縄文時代の三内丸山遺跡の六本柱は、冬至には日の入と合致して神秘的な情景を現出させます。ただし、ドイツ人日本学者のネリー・ナウマン氏が、縄文時代の土器・土偶などに見られる造形が月をシンボライズしていることに着目し、「月のシンボリズム」を提唱されているように、縄文人の精神世界の中心にあったものは太陽というより「月」にあったというべきでしょう。これは何も縄文人に限定されるものではなくて、狩猟採集民に共通する信仰として位置付けられます。狩猟採集社会から農耕社会へ推移するに従って、農業と不即不離の関わりをもつ太陽が祈りの対象とされるようになっていったのではないでしょうか。また、これは暦法の発展・形成とも深く関わります。
 今から約2500年前頃、水稲耕作が朝鮮を通じて日本に伝わります。日本人の農耕生活のなかで太陽信仰が発生・発展を遂げ、やがて「日子(ひこ)」・「日女(ひめ)」と呼ばれる祭政体制のなかでの有力者が出現します。この日子・日女という言葉は、皆様も耳馴染みがあると思います。日子は人名として、よく「彦」の字をもって見かけますし、日本書紀や古事記には「山幸彦・海幸彦」や「ナガスネビコ」など神様の呼称にもされています。古代の日本には、こうした日子・日女を中心とした祭政体制国家が勢力割拠していたと私は想像しております。後に朝鮮半島から天皇を族長とした集団が、日子・日女と時には融合し、時には争いながら、日本列島に渡来してきました。山幸彦(ホオリノミコト)が兄・海幸彦(ホノスセリ/ホデリ)を呪具で倒し、それが隼人族の祖となったという点に着目しても、日本旧来の日子と皇室の祖先にあたる大陸系帰化人との間に紛争があったのではないかという気にさせます。やがて天皇を中心とした中央集権国家を確立していきます。
 今心付くのは、歴史の大きな「うねり」のなかで、豪族や武士の台頭がありながら、乙巳の変に始まる公地公民を目指した一連の政治改革(大化の改新)や承久の乱、建武中興(これは悪党と呼ばれる民主主義的な反幕府勢力に支えられて実現されています)や大政奉還に至るまで、「天皇を中心とした神の国」という日本の本来的な国家概念が干潟のように史実に現れることがあります。つまり、こういう国家概念が日本人の意識の底流にあるのではないか、と思うのです。しかし、日本人が歴史の大きな変遷のなかでも一部の間で天皇制が支持されたという事実には、何かそこに利益があったのではないか、とさえ思えます。朝廷側にとってみれば、勢力奪回をすることによって多くの利益が得られます。ただし、朝廷側が1人立ち上がったところで、歴史を動かしているのは九割方民衆にあるといえますので、国民意識のなかにも皇室主義的思想が流れていたと考えるのが自然ではないでしょうか。では、民衆にとっての利益とは何でしょうか。埼玉大学の長谷川三千子先生は、「いやしくも民に利あらば、何ぞ聖の造に妨はむ」という建国の詔の記述に注目して、皇室の営みには神々の教えに縛られて、常に民主的なものがあると述べられています。東北大学名誉教授の田中英道先生も、日本にとっての国家とは、天皇を中心とした大きな家族という表現をされていますが、こういう日本古来の国家概念がやはり時代を超えて日本国民の意識の底流にあったということが言えます。

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「此地は韓国に向かい、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」

古事記に見える、天孫降臨の一節です。アカウント名の由来でもあります。さて、我々の遠い先祖が、この島国より太陽が光放つ姿にどのような感情を覚えたのでしょうか。私も太陽の日照る姿には、どこか心の底から生命力が沸き上がって来るような感覚になります。この瞬間に私と古代人との間に見えない力が働いたのではないか。そう思えてならないのであります。

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