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車椅子の利用者もいる中、不便な2階に引っ越してからのこと

24時間365日の介護サービスの提供が始まって、数ヶ月。高齢者コミュニティーセンター(コミセン)の和室から、住民センターの二階に引っ越した。

新しい場所ができるまでの期間限定の仮の場所だったから、エレベーター等はなかった。階段昇降は、人間リフト。筋トレだった。小さなバリアフリー改修をされ、少しずつ生活環境は少しずつ改善された。変わらず公的な施設ではありながら、間借りではない為、自由度は増えたと思う。泊まりで利用されていた美江子さんもプライベートのある空間で休むことができるようになった。すごく狭いけど、お風呂もあった。トイレへのアクセスも段差がありまくる環境ではあったけど、自分たちの場所ができた。

2階に引っ越してからのこと

ただ、生活環境は落ち着いてきていたけど、「2階に上がってから、存在感が薄いな」と言われたことがあった。色々と工夫して外に出る機会は作っていたけど、僕自身が人の中に入る時間が取れていなかったからかもしれない。畑や海に、馬??「島中で支える」そんな大それたことではなく、縁のある場所や、ゆかりのある物から、色々なことを教えてもらった。

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「美味しいから!」と教えてもらい、一緒に突きに行った「ニッチョベ」早速、天ぷらにしてもらう。一つ食べて、「うまいですね!」って話をして席を外したら、全部食べられていた。少年のような笑顔の健雄さんと岩義さんを思い出す。宝島では、老いても少年なのか?笑

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もちろん、2階に上がってからも、地域の行事には変わらず積極的に参加していた。十五夜相撲では、宝島の横綱を引っ張り出したけど、負けた。その後、相撲を取る機会がなく、勝ち逃げされている。娯楽のない宝島では、高齢者の楽しみの一つだ。もちろん、その後の飲み会も込みで。

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年に一度の敬老祝賀会で、存在感を出そうと張り切りすぎて、「下品だ」と叱られた。難しいものだ。笑 慢性的な人出不足。それは、最後まで解消されない課題だった。ただ、十五夜行事にしても、敬老会にしても、少しずつ高齢者に配慮された場になっていたように思う。

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妻はお産のため、鹿児島へ

常駐する医者のいない宝島での妻はお産のために宝島を離れた後日に予定されていた運動会の弁当まで心配してもらえることが、有難かった。ちなみに、子供たちからもらった絵で、思うことがある。

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僕はいつまでも「よねにいちゃん」ということだ。それは、80を過ぎた婆様も、それまでの変わらぬ関係性の中で「〇〇ねえ」ということだ。親と婆様の関係性で、7歳の子が、80を過ぎた婆様を「〇〇ねえ」と呼ぶ姿は、違和感があるかもしれないが、日常だ。

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