小さな宝島で自然の怖さと人の優しさを感じた話
2015年の夏。恒例行事も変わらず、続く。
夕涼み会には、いまきら園の子供たちのおみこしが披露された。
島の保護者も含めて、色んな人が一緒に歩き出すから、仮装行列のようにも見える。
僕が何度声をかけても、外に出たがらない人たちも、外へ出る。子供たちの魔力だ。
子供たちの「泥リンピック」話し合いの場は、事業所の居間だった。決まらぬことは、多数決。サポーターの婆様たちも参加する。
そして、その年も泥にまみれる。
この写真を撮ったあと、さらに、まみれる。
喜義さん
数年前まで、夫婦で耕運機に乗り、畑や牧場に行かれていた喜義さん夫婦。その姿が、どうしても絵になり、十島村のカレンダーに乗ったこともある。
「ザ・宝島」そんな絵になる夫婦だった。普段あんまり喋らないけど、阿吽の呼吸なのか、仲の良い夫婦だった。
2015年、そんな奥さんを亡くされた喜義さんの利用が始まっていた。腰の痛みが出るようになり、耕運機から、セニアカーに乗り換えられた。それでも、畑や牧場へは行かれる。
喜義さんに限らずだが、宝島の高齢者が乗るセニアカーは、他の地域よりも働いていると思う。
集落の近くである作業の時に目にする「宝島マリオカート」人もセニアカーもよく働く。
喜義さんの暮らし
同じ敷地内に息子さん夫婦が住んでいるが、自分でできることは、自分でされる人だった。ずっと、亡くなった奥さんに任せていた食事作りにも前向きな様子もあった。特に、神様や仏様のことに関しては、責任を持ってされていた。それは、これまでに宝島の重役を担って来られた故のことだろうと思う。
まつりの晩には、喜義さんの唄の口始めが出ないと、カラオケは始まらない。
これは、誰でもできる役割ではなく、受け継がれていくものだった。
人間関係の狭さに感じること
2015年夏、僕らも少し関わらせて頂いた方が亡くなった。利用はしばらくだったが、ずっと気にかけていた方だった。元村長に奥様であり、気丈な方だった。だからこそ、自分自身が認知症を患っていることを受け入れられなかったのかも知れない。
「なんでこんなになったんだろうね。もうわからんよ。」
誰に話すわけでもなく、呟かれたことを思い出す。
「なんでこんなになったんだろう。」同じように、ご家族や親戚の方の声も聞いた気がする。僕も含めて、キツいことを言われることもあった。でも、利用している、していない以前に、親戚であり、島民という関係性があった。
その方は、最期は島を離れて亡くなった。「人には迷惑をかけないよ!」と、話されていた通り。お見舞いに行く間もなく。小さなコミュニティで人を支えることの心強さ。そして、難しさ。学ぶ日々だった。
自然の脅威と人の優しさ
そして、この夏の台風。僕ら家族が引っ越して来た新築の村営住宅は、被害に遭う。幼い子供2人の我が家。暴風雨の中、出張員だった哲也さんと現業職の昭利さんが救助に来てくれた。
子供たちをバスタオルに包んで、車に走る。無事にコミセンに避難。もちろん、怒られた。今までで一番くらい。それくらい心配してくれていたということだ。自然の恐ろししさと、そこで暮らす人のあたたかさを、痛感した出来事だった。
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