見出し画像

宝島に住み続ける決意と、90歳を超えた婆様たちに教えてもらったことの話

2010年の年末、婚約者が宝島を訪れいていた。婚約者…(初々しい響きだ…)2人で気兼ねなく⁈会えるのは、久しぶりだった。なぜなら、なぜか、いつも絶妙なタイミングで、黒岩さん(社長)も一緒に来島していたからだ。(笑)

島の正月

年末といえば、宝島には3回の正月があった。今までも過ごしてきた正月と、旧暦での旧正月。そして、歴史を遡ってルーツのある七島正月。少しずつ昔の風習はカタチを変えながら残っていた。この年、僕は初めて自分で、自分の家の門松としめ縄を拵えた。親が準備してくれたり、購入したりするのが当たり前だった門松だ。むしろ、正月飾りに無頓着になっていた気もする。島の子供たちと一緒に、「島の先輩方」から、しめ縄の作り方を教えてもらい、島内で調達する材料で作る門松作りを教えてもらった。

初めての正月の準備はひと段落してはいたものの、僕の変わらない慌ただしい日常を、彼女と一緒に過ごした。宝島で暮らしてみたら、それまた面白いかも。遠距離恋愛中の僕にとっては、前向きなイメージが強かった。若いって、素晴らしい。

島で暮らし続ける決断

「子育ての頃が一番楽しかったよ〜。早く、あんたもお嫁さんをもらわんね。」っていう話をしてくれる、民宿の大女将のシマさんは、畑仕事が好きだ。でも、それは「自分の畑」の仕事だ。やすらぎの畑では、頼まれるまでは土に触ろうとされなかった。シマさんだけではない。島の人々には、代々守ってきた家や畑、土地だからこそ、こだわる意味がある。

そして、年が明けて、2011年1月7日。全島民での新年会を終えて、鹿児島に戻った僕らは、入籍した。それは、シマさんの言葉に背中を押されたからではないけど、これからも宝島で暮らすことを決めたということでもあった。今更だけど、妻にとっても、大きな決断だったと思う。縁もゆかりもない、コンビニやスーパーもない、100人が暮らす島に移住するという決断だった。若いって、素晴らしい。

宝島で仕事を続けていく上で、僕自身、しっかりと介護の知識を得る必要があった。僕は、宝島に移住するまで、介護の経験はなかった。だから、介護職の研修会や勉強会に参加しても、頭の中には「??」ばかり。その上、専門用語ばかりの研修は、僕を不安にさせた。そして日頃、宝島で感じていることには隔たりを感じていた。黒岩さんは、「お前にしかできなこと、宝島でしかできないことがある。」って、言ってくれていたけど、内心は不安なことも多かった。

コトエさんとの思い出

年明け早々に研修を受けさせてもらい、よかあんべでの実習が始まった。僕はこの実習期間で、アセスメント、「センター方式」、「ひもとき」や記録の仕方について学ぶためだった。当時の僕は、思い入れが強すぎだのか、主観的な記録を書いてしまいがちだった。今でも、気をぬくと、自分なりの理解を色付けして話してしまう。最近では、そんな自分も半分は受け止めつつ、客観視する自分も忘れないようにしている。

その実習でも一番お世話になったのが、コトエさんだった。高齢で自宅での一人暮らしが難しくなっている方だった。コトエさんに叱られながらも、大変お世話になった。そして、僕に残ったのは、研修の目的だったアセスメントや記録についてではなかった。

僕は当初、目標を達成するために研修に臨んでいたけど、一番心に残ったのは最終日に、コトエさんの自宅に戻った時のことだった。数日ぶりのご自宅で、スタッフが一通り家の様子を見て回り、居間でお茶を飲み、ゆっくり談笑していた時、「大丈夫、大丈夫。自分の家のトイレだもの。」とトイレに向かわれた。僕が初めてよかあんべに遊びに行った時と同じように、這って行かれた。

トイレに入られてから「ちょっと手伝ってくれんか?」と声をかけられた。高齢で足腰の弱っていたコトエさんのお手伝いを、自然な形でスタッフがする。午前中だけの自宅滞在の予定を、コトエさんの「ここで食べよう。」の一言から、すぐに事業所に連絡して、ご自宅で昼食を食べた。僕たちも一緒に、食卓を囲む。いつもの食事だったけど、いつも人生訓を語ってくれるコトエさんは3割増しで、おしゃべりをされていた。

住み慣れた場所への想いは、僻地離島も本土も変わらない。「家で食べるご飯は、美味しいね。」笑顔で話された歯の少ないコトエさんの笑顔を思い出す。そんな臨機応変な関わりができるのも、「自分と利用者」の関係だけでなく、「自分と仲間」という視点を共有できていたからだと思う。僕はその時「軸となる理念」「相互の自己実現」という言葉を使い日誌をまとめていた。

その後数年して、コトエさんは亡くなられた。

ここから先は

224字 / 1画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?